クロアチア、ボスニア旅行記(モスタル、サラエヴォ)最終回
旅行記、ずいぶんと間が開いてしまいましたが、これが最終回です。
旅も終盤となりました。今日はドブロヴニクから出発し、最後の目的地、ボスニア・ヘルツェゴヴィナに向けて出発します。
再び、ボスニア・ヘルツェゴヴィナの海沿いの飛び地ネウムで休憩してから、一旦クロアチアに出国し、再度ボスニア・ヘルツェゴヴィナに入国。今までの陸路の入国の中では一番入国手続きに時間がかかりました。手続き所に何台もバスや車が止まっており、30分ほど停止。バスを降りていたら、中に戻るように促されました。それでも、手続きはすべて運転手のマリオが代行してくれて私たちは係官には会う必要はありませんでした。
ネウム。ここにはドライブインとスーパーがあり、クロアチアと比較して物価が安いため、クロアチアから買い出しに来る人も多いとか。お土産物もいろいろと売っており、皆さん結構買い物をされます。
ボスニア・ヘルツェゴヴィナに入国すると、外の風景が変わってきています。ほぼ内陸の国なのですが、なだらかな坂や山、川や湖、翠の中に点在する家々や家畜。のどかで自然がとても美しいところです。
到着したのは、モスタルというボスニア・ヘルツェゴヴィナ南部の中心都市。バスターミナルですでに無料Wi-Fiが使用できた。ここで、大勢の子供たちのグループに出会います。揃いのTシャツを着ている、小学校高学年か中学生くらいの子供たちです。日本人を見るのがよほど珍しいのか、一緒に写真に写りたがっていたし、英語で話しかけてきたりして人懐っこいし、とっても元気が良く明るい子供たちでした。ここでもみんなスマホを持っていて、それで写真を撮っています。それから、近くの教会からは、若い修道士たちがたくさん出てきました。
若い女性のガイドさんは英語が流暢で、子供時代にはアメリカのシカゴに住んでいたという。そのため、実際には戦争は体験していないそうです。ところが、この街にはいたるところに戦争の傷跡がある。弾痕が無数に開いた廃屋、実際に使われている建物にも弾痕があったり、崩れかかった建物も。また、明らかにクロアチアより貧しい国に入ったというのがわかるのは、子供の物乞いを何人か見かけたこと。さっきのスマホを持ってはしゃいでいる子たちとの違いは何なんだろう、と考えてしまいました。
モスタルのシンボルは、世界遺産に登録されている橋、スターリ・モスト。モスタルは古くから交易で栄え、15世紀からオスマントルコの支配下に入りました。1566年に作られたこの橋はネレトヴァ川にかかり、橋脚が一本もなく、中央に向かって急こう配となっている、すっきりとした造形の美しい石橋。中央部に立っている若い男性がいましたが、25ユーロ払えば、この20メートルの高さから下に飛び込んでくれるという。水の色は深い緑で、橋の上から見る風景は異国情緒が漂い、周辺の緑と相まってとても美しい。ボスニア・ヘルツェゴヴィナは人口の70%がイスラム教徒だそうですが、モスタルではキリスト教徒と半々だそうです。実際、髪をスカーフで覆ったイスラム系の美しい女性をたくさん見かけたし、コーランを路上で売る人たちもいました。
ところが、この橋は、ボスニア・ヘルツェゴヴィナ紛争で1993年に破壊されてしまいました。橋の西側はクロアチア系カトリック教徒、東側はボシュニャク人イスラム勢力が支配していて攻防を繰り広げたそうです。橋の近くの土産物店で、橋が破壊された時の記録映像を流していました。この映像は衝撃的で思わず言葉を失ってしまいます。美しい橋が完全に崩壊するまでの様子が克明に記録されていました。橋のたもとには、DON'T FORGET '93と書いた石碑が置いてあります。今ではこの橋は復元されて、復元されたのちに世界遺産に登録されたということです。
モスタルの街自体は、観光客で大変にぎわっています。特に東側のイスラム側にはたくさんの商店が並んでおり、イスラムの影響を受けたエキゾチックで色とりどりの小物やアクセサリー、スカーフなどが売っていました。ボスニア・ヘルツェゴヴィナは銅製品の産地ということで、銅でできたアクセサリーには独特のオリエンタルなデザインが施されていて、スタイリッシュで素敵です。銅を細工しての皿などを制作している工房の様子なども見学させてもらいました。4代にわたってここで仕事をしているとのこと。値段もとても手ごろだし、デザインもすぐれているので、お土産にすると喜ばれるものだと思います。トルコ的な陶器のお皿、銅のブレスレットやピアスなどなど。観光地なので、大体の店でユーロが使えます。
川沿いにはコスキ・メフメッド。パシナ・ジャーミヤという大き目のモスクもあります。橋を撮影する絶好のポイントですが、モスクには入場料が必要です。
昼食は、ボスニア名物のチェヴァプチチを頂きました。皮なしのソーセージですが、これはとてもおいしいです。
そこから、ボスニア・ヘルツェゴヴィナの首都、サラエヴォへと移動します。相変わらず窓の外の風景は美しいのですが、時々無残に崩落した建物を見かけます。3軒並んでいて1軒だけ廃墟になっていて、ほかの2軒はきれいに整えられているのでいったい何が起こったのか、と胸騒ぎがします。緑豊かな山肌に抱かれているのに、戦争の傷跡が残っているのを見るのは、自然が美しいだけにとても痛ましく感じられました。時には、道端に墓銘碑がぽつんと立っているのを見かけます。戦争で亡くなった人たちだそうです。
サラエヴォは、高い山々の中の盆地にある街。やはり山肌に転々とオレンジ色の屋根の家々が並んでいる風景はのどかです。宿泊したホテルは中心地から少し離れていますが、高層でモダンな建物。路面電車がたくさん走っていますが、この路面電車の走るスピードが、私たちの乗っているバスよりも早いという不思議な状態です。ヨーロッパで初めて、そして全世界で2番目に早く終日(朝から夜まで)運行の路面電車が運行された町だそうです。
前日までサラエヴォは大雨だったそうで、街の中心部を流れる川は濁っており、水位は非常に高かったです。ニュースでもちらっとは目にしていたのですが、バルカン半島で大雨が続いており、その時点でもボスニア・ヘルツェゴヴィナでは10数人の方が亡くなっていたとのこと。サラエヴォ市内はそこまでの被害はなかったようですが、この大雨と洪水はこの国にとてつもないダメージを与えたことを、帰国してからのニュースでもみかけて、とても胸を痛めました。しかも、洪水で地雷が流出してしまい爆発する騒ぎが発生しており、国民の4分の1にあたる95万人が避難しているといいます。
ここでの現地ガイドさんは若い男性で、オペラ座のエトワール、マチアス・エイマンによく似ています。まずはボスニア・ヘルツェゴビナの国立図書館へ。ここは、ボスニア紛争で1992年に破壊されたそうですが、22年の時を経て5月9日に復元されて再オープンしたばかりだそうです。この復元については、日本からの資金援助もたくさんあったとはガイドさんの話。破壊された際には、200万冊近くの蔵書が焼失したそうです。
そこから旧市街バチュシャルシャの方へと歩きます。銅製品などエキゾチックなものを販売している商店が並びます。ボスニア・ヘルツェゴヴィナは、東と西が出会う文明の合流地点なので、街の雰囲気もやはりオリエンタルなオスマン・トルコ帝国由来のものと、ハプスブルグ帝国の影響、スラブの影響とあって興味深いものでした。バチュシャルシャの広場には、木製の六角形の水飲み場があり、そこが待ち合わせ場所として機能しています。ここも、ロマ系などの子連れ物乞いがたくさんいます。スリなども多いそうなので気を付けるようにとのことでした。
ガジ・フスレヴ=ベグ・モスクは1531年に建てられた、とても大きく美しいオスマン建築です。白い建物で、ここでは祈りを捧げている人たちがたくさんいました。、サラエヴォ包囲ではガジ・フスレヴ=ベグ・モスクも大きく損傷を受けたそうです。サラエヴォは1992年4月5日から1996年2月29日までセルビア人勢力の包囲下にあり、この間12,000人が死亡し、50,000人が負傷。このうち85%が市民だったという悲劇が起きたのでした。
そしてこのモスクのほど近くには、第一次世界大戦の引き金となった、かのサラエヴォ事件の舞台となったラティン橋がありました。1914年にオーストリアの皇太子フランツ・ヨーゼフ夫妻が暗殺された事件です。橋のすぐそばに博物館がありますが時間が遅いため閉まっていました。でも博物館の窓には、暗殺犯たちの写真や裁判の様子などの写真が掲示されているので外から見ることができます。 ちょうど第一次世界大戦開戦から100年という節目の年でしたね。
そこから少し歩くと、フランツ・ヨーゼフ夫妻が宿泊する予定だったというホテル・ヨーロッパの前を通りました。中にも入りましたが、ここのティールームはクラシックでウィーン風の重厚さと華麗さがあります。そしてカトリック教会の大聖堂「イエスの聖心大聖堂」へと歩きました。サラエヴォで最も大きな、壮麗な教会でステンドグラスが見事です。聖堂内の椅子に白いリボンが結び付けられていましたが、先ほどまで結婚式が執り行われていたようでした。聖堂の前には、弾痕のある地面に赤いペンキがぶちまけられていたようなモニュメントがありました。ここで流血事件があった痕跡だそうです。これは「サラエヴォのバラ」と呼ばれ、町中にいくつも残っているとか。
簡単な市内観光が終わり、マリオのバスが到着する間に少しガイドさんと話しました。ボスニア・ヘルツェゴヴィナはサッカーが盛んで、このたび初めてワールドカップに出場します。ガイドさんは、子供のころ「キャプテン翼」がテレビで放映されていたので、日本に親しみを持ったそうです。84年生まれだったので、子供のころは戦争の記憶もあったそうで、「本当につらかった」そうです。ホテル・ヨーロッパの前でバスを待っていたのですが、ホテルの前の建物、ヨーロッパ風のクラシックで美しい建物なのですが1階は商店となっており、保存状態はあまりよくなく、そして弾痕がたくさん残っていました。
旧市街の方へ向かった時に通った通りでは、黄色いホテル・ホリデイインがありました。そういえば、このホリデイインは昔ニュースで見覚えがあったのです。ボスニア紛争の時に各国のジャーナリストがここに宿泊して戦況をここから伝えていました。電気も水道も止まってガラスは銃弾によって破壊されていたりしていたのですが、今ではきちんと修復されていました。このあたりには、悪名高い「スナイパー通り」です。「動くものは全て砲撃の対象」となっていたそうで、高層マンションなどにも銃弾の跡が残っています。
ボスニア内戦 民族紛争の真実 前編(ボスニア紛争のドキュメンタリー)
http://youtu.be/ydUA7w8XGAs
帰りは商業の中心街をバスで通りましたが、こちらの方はごく普通のヨーロッパの都市の繁華街という感じで現代的な雰囲気で活気がありました。着実に戦争からは復興している感じです。
ホテルに戻っての夕食。ホテルの最上階が回転レストランとなっていて、サラエヴォ市内を一望できます。ところが、不思議なことに、夜景らしきものは全然見当たりません。夜がとても暗いのです。ホテルの近くには高層団地などもあるのですが、どうやらここでは遮光カーテンを使うことが多いので明かりが漏れないのですね。サラエヴォ空港がかなり近くにあるので、空港の光を見ることができました。明日、この空港から帰国することになります。
サラエヴォでの短い観光では、本当にいろんなことを考えさせられました。わずか20年前にここで起こった戦争のこと。東西の文明が出会い美しいこの街で、人々が殺し合ってしまったのはどうしてだったのだろうか。ずいぶん前に観たマイケル・ウィンターボトム監督の映画「ウェルカム・トゥ・サラエヴォ」を見直したくなりました。
翌朝、帰国の途に就く前に、ホテルのすぐ横にある廃墟群を見てきました。破壊されたアパートメント、弾痕が残る崩れかかった壁などたくさんありました。真っ青に晴れた美しい空の下、雑草が生い茂るなかでこれらを見ると、もう言葉を失います。20年以上経っても生々しいです。すぐ隣にある、宿泊ホテルが近代的で豪華なのに対して、手つかずのままでこんなに廃墟が残っているとは。
すぐ近くにショッピングセンターがあったのでそこまで歩きましたが、外観はきれいなのに中は薄暗く、商品の数も少ないのです。しかし、これまであまり縁がないところに来て、そして実際に戦争があった場所に足を運ぶことは、とても意義深いことだと思いました。行ってみないと、伝わってこない重みがあり、打ちのめされました。同じ国の人たち同士が殺し合うというのはどういうことなのか、それは、現在もウクライナやイスラエル/パレスチナ、シリアなどで行われていることですが、とにかく戦いが終わり平和が訪れることを望んでやみません。
サラエボ空港からミュンヘン空港を経て帰国し、ビジネスクラスでの快適な帰国の途でしたが、いろいろと考えさせられたこと、感動したこと、いろいろとありました。ベテランのツアコンの方も、とても知識・経験が豊富で感じがよくて、楽しく過ごすことができました。高齢で足も弱くなっていた父との旅は大変なところもありましたが、とても充実したものでした。そして、これが父との最後の旅となってしまいました。今月、元気で現役で仕事もしていた父が突然倒れ、病院の集中治療室に運ばれ、意識を取り戻さないまま、帰らぬ人となってしまったのでした。商社マンとして海外で長く活躍し、旅が好きで、クラシック音楽、映画、美術、歌舞伎にも造詣が深く、また最近までテニスを楽しみ阪神タイガースを愛した父。とても知識欲が旺盛で、社交的で友達もたくさんいたようです。父親との旅というのはちょっと照れくさいもので、ありがとうの言葉も言えないままの別れとなってしまいました。この旅は、父からの最後の贈り物となりました。お父さん、ありがとう。
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