本当は今日は映画を観に行くつもりだったのだけど、新宿ピカデリーに行ったら、見られる時間帯の映画が全部満席だった。株主優待で新宿ピカデリーで上映される映画は、上映1週目以外は全部無料で観られるのだけど、2回に一回は満席で何も観られなくて引き返す羽目になっている。
新宿はほかに映画館が大したものがないし(そもそも新宿という街が嫌いだし)、渋谷に行って、「国立トレチャコフ美術館展 忘れえぬロシア」を観に行く。この展覧会の目玉である、クラムスコイ「忘れえぬ女」のポスターが、あざやかなインパクトを残していたからだ。
ロシア美術を、紡績業で富をなした創始者トレチャコフが収集。彼の没後自宅が国立トレチャコフ美術館となり、約10万点の作品を所蔵しているとのこと。今回の展覧会では、その中でもコレクションの中心となっている19世紀後半から20世紀初頭にかけての作品を75点展示。
http://www.bunkamura.co.jp/museum/lineup/09_tretyakov/index.html
「忘れえぬ女」くらいしか知っている作品もなければ、その時代のロシア美術について何も知らないので、果たしてどうなんだろうと思っていたけど、観に行って良かった。75点の作品は、傑作ぞろいだった。
この展覧会は、以下の4つのテーマを主題として展示されている。
1:抒情的リアリズムから社会的リアリズムへ
2:日常の情景
3:リアリズムにおけるロマン主義
4:肖像画
5:外光派から印象主義へ
このテーマから浮かび上がってくるのが、リアリズムだ。庶民の生活の哀歓を描いた作品群。画家の家族や親しい人を描いた作品といった人物画、肖像画も魅力的だ。結婚式への準備を行う花嫁と親戚や友人たちの姿を描いたワシーリー・マクシモフの「嫁入り道具の仕立て」を見ると、全然雰囲気は違うのだけど、ニジンスカのバレエ「結婚」を思い起こす。
今回の展覧会で特に深く印象に残ったのは、3.のリアリズムにおけるロマン主義。23歳で夭折したフョードル・ワシーリエフの「白樺林の道」や「雨が降る前」「猟師」における繊細でドラマティックな自然描写。アルヒープ・クインジの「エルブルース山-月光」では、月光を浴びた白い山頂が、蒼く輝いて鮮烈な印象を残す。同じクインジの「ヴァラーム島にて」では、グリーンの使い方、そして冷たい光の表現が独特で、写実的なのにも関わらず、いまだかつて見たことがないような幻想的な世界を見せてくれる。イサーク・レヴィタンの「静かな修道院」は、神聖さと静けさのなかに、美しい光景を見た者の高揚感までもが伝わってくる。鏡のように修道院を映す水面にかかった古くて小さな橋が、象徴的だ。同じくレヴィタンの「たそがれ、干し草」は、夕景の中に積み藁を描いているだけなのに、神秘的で哲学性すら感じさせる。
風景画はどれも目を吸い付けて離さないようなドラマ性がある。ロシアの厳しくも美しい自然と広大な大地。特にふわりとした雪の表現や、玉虫色のような色彩さえ帯びている空の色は心に残る。今回のコレクションを構成している画家の多くは、ヨーロッパへと旅をして、同時代の印象派の影響を受けている。5.の外光派から印象主義へ、ではその印象派の影響も感じされる。しかし光の表現などに印象派の影響を受けながらも、ロシアらしいオリジナリティ、リアリズムやロマン主義、リリシズムが脈々と息づいているのが感じられた。
肖像画家として若くして名声を得たイリヤ・レーピン。文豪ツルゲーネフのもっとも有名な肖像画をはじめ、自信と才能に溢れる美しいピアニストを描いた「ピアニスト、ゾフィー・メンターの肖像」、そして堂々とした美丈夫の軍人/劇作家/俳優「コンスタンチン・コンスターノヴィチ大公の肖像」、若く輝かしい美青年「劇作家レオニード・アンドレーエフの肖像」などを描いているが、同時に、自身の娘ヴェーラ20歳当時の生き生きとした若さを刻み付けた「秋の花束」のみずみずしさ、息子ユーリーの5歳の愛らしい姿を描いた「画家レーピンの息子 ユーリーの肖像」などの身近な人々を描いた作品には、印象派の影響が感じられると共に、温かさがある。
そしてクラムスコイの「忘れえぬ女」。原題はUnknown Ladyとなっているので、正確には「見知らぬ女」とすべきか。黒い衣装に、黒髪、エキゾチックで大きな黒い瞳の若い女性。ちょっとニーナ・アナニアシヴィリに似ている感じ。高価そうな服を着ているが、無蓋の馬車に乗っているので決して高い身分ではないようだ。長い睫毛を少し伏せて憂いを含みつつも挑発的なまなざしと、きりっと結ばれた口。この作品につけられた解説によると、ある者は彼女の中にチェーホフの「アンナ・カレーニナ」を見出し、また別の者は、トルストイの「白痴」のナターシャを重ね合わせたという。社会に対して挑むように見える彼女は、ロシア版の「椿姫」だと解説は書いている。実物を見ると、絵の具がキラキラ輝いているように見える。明度の高い背景に対して、黒をベースにした彼女の姿が浮かび上がり、きらめきを放っているのだ。
もう一枚のクラムスコイの作品「髪をほどいた少女」も、光を乱反射する少女の金髪と、思い悩むようなまなざし、繊細な空気が伝わってくる。
ツルゲーネフのほか、チェーホフやトルストイの肖像画もあるが、ここに展示されている肖像画は、画家が描く対象に対して感じている思いが良く伝わってきている。ただの肖像画に終わっていなくて、その人物の持つ精神性までもが感じられていて、深い。
ロシア文学などに関心を持っている方にもぜひ観て欲しいと思う。素晴らしい展覧会だった。
最近のコメント