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書籍・雑誌

2009/09/06

『薔薇族』編集長 伊藤文学

日経ビジネスオンラインに書かれていた書評「ノンケな『「薔薇族」編集長』がゲイ雑誌を創った理由」を読んで、興味を持った一冊。

http://business.nikkeibp.co.jp/article/life/20090706/199450/

「薔薇族」という同性愛者向けの雑誌がかつて存在していたことは知っていたものの、手に取ったこともなければ、読んだこともなかった。だが、この本を読むと、一度は読んでみるべき雑誌だったのだろうと思わされる。実はゲイの友達も多いので、この分野には関心が強かったのだ。で、読んでみて、いかに自分が彼らについて理解していなかったというのがわかってしまった。

1971年に「薔薇族」を創刊した伊藤文学氏は、ノンケ(ヘテロセクシャル)の男性で、父親が細々と営んでいた出版社を生き残らせるためにさまざまな本を出版する。「ひとりぼっちの性生活」という真面目なオナニーの本がヒットし、その本に質問や悩み事を受け付けると奥付に書いたところ、数々の反響の中で、男性を想ってオナニーをしているという手紙があった。それを読んで、伊藤氏は、同性愛者という人々がこの世に存在し、彼らも自分と同じような悩みを抱えていることに気がつく。オナニーが罪深いものであると思って悩んでいた若き日の自分と、相談者を重ね合わせたのだ。そこで、彼は、同性愛者向けの雑誌を出せば彼らの気持ちもすっきりするのではないかと思いつく。

同性愛者の協力者を得て、さらに紆余曲折を経て創刊した「薔薇族」の反響は大きく、初版1万部を売り切るほどだった。最初はグラビアのモデルになってくれる男性を探すのも難しく、女性を撮影しているカメラマンを使ったりして苦労したとのこと。
自分は精神異常なのではないかと悩んでいたが、「薔薇族」を読んで、世の中には同性愛者がたくさんあることを知って安心した、という手紙も来た。

創刊号には「きみとぼくとの友愛のマガジン」と表紙に書いてあるように、読者との交流に大きな意味を持たせた雑誌ということでも画期的だった。発売されてからは次の号を待ちわびる読者からの電話が毎日のようにかかってきたし、読者を編集部に読んでのパーティ、高校生の座談会、電話相談室、愛読者旅行などさまざまな企画が行われた。文通欄には多くの掲載希望者からの手紙が舞い込んだ。一時期は「祭」という店を新宿に開き、多くの読者でごった返した。とにかく伊藤氏は、読者との交流をこの上なく大事にしていたというのが、伝わってくる。

本の中では、多くの読者からの手紙が紹介されており、愛のかたち、結婚のかたち、そして悩みも本当にさまざまであることがわかる。少年愛、百合族、中年専門の人など。読者の職業で最も多いのは教師だったそうだ。「薔薇族」を書店で万引きしたところ、見つかってしまい飛び降り自殺した高校生の痛ましい話などもある。また、薔薇族の青年にあこがれる女性たちも登場する。(今で言う腐女子に近いものだろうか)

また、多くの才能が「薔薇族」の中でひっそりと才能を咲かせた。男性の写真を撮っては売り生計を立てていた、誰も本名を知らない「オッチャン」、表紙を飾った絵を描いたアーティストたち、小説家たち。メーンストリームの世界では有名にならずとも、この本で紹介されている彼らの作品(特に、いわゆる「男絵」というカテゴリのイラスト)はどれも美しい。何回も警察に呼び出されては発禁処分を受けながらも、腹をくくった伊藤氏は屈することはなかった。

『薔薇族』を取り巻く世界も、時代の流れを必然的に受けてきた。オウム真理教信者で逮捕された青年が売り専をしていて、彼に恋をした男性の投稿があった。日航機墜落事故に恋人が乗っていたという男性からの痛ましい手紙。そして、この雑誌が創刊されてからのもっとも大きなトピックスは、AIDSの上陸だった。「薔薇族」は、この病気についていち早く医師らのインタビューを掲載したり、読者に検査を受けてもらう企画を立てたり。後に伝説的な名作とされるホモビデオの製作もした。

80年代になると、伝言ダイヤルなどの新しいサービスが始まったり、93年ごろにはゲイビジネスが花盛りとなった。この本「『薔薇族』編集長」は2001年に単行本として発行されたのだが、インターネットなどで手軽に同じ嗜好の人たちに出会えるようになる時代となり「薔薇族」は2004年には休刊する。復刊を遂げたものの、再び休刊し、現在は伊藤文学氏が個人で発行をしている。(伊藤文学氏は、現在はブログを開設してこまめに更新を続けており、「ご感想・ご相談はこちらへ」とメールでの相談を受け付けているなど、今でも積極的に交流を行っている)http://bungaku.cocolog-nifty.com/

同性愛者ではないにもかかわらず、彼らの気持ちに寄り添い、全力で雑誌を支え続けた伊藤文学の記録、読み終わった後にはなんともいえない感動がある。と同時に、日本における同性愛カルチャーの記録にもなっている本である。「自分は一人ではない」という思いを共有させ、勇気付けてきたということはすごいことだと思う。

松岡正剛の千夜千冊での紹介も(当時の誌面やグラビア、イラストなどの紹介もあり)ぜひご覧いただければ。
http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya1208.html

『薔薇族』編集長 (幻冬舎アウトロー文庫)『薔薇族』編集長 (幻冬舎アウトロー文庫)

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2009/04/14

ファッションから名画を読む 深井晃子

人物画を観るというときに、私たちは何を観ているのだろうか。もちろん、その人が何を着ているのか、意識はするけれども、どれほど注意深く観ているのか。ときどき、ちゃんと観なくてはならないものを見落としている、と感じることがある。

裸体画でない限り、人物は何かしらの服を身に着けている。そして、それらの服装こそが、その人物がどのような社会的な地位を持った人間で、どの時代にどのように生きていて、その時代とはどんなものだったのかというのを語るものだ。

というわけで、服飾史の専門家である筆者が、ファッションを通して、ルネッサンスから19世紀初頭までの美術史について語ったのが、この本だ。ファッションと言うと軽く聞こえるけど、服装には、その時代の社会情勢や政治までもが見えてくるところがある、とこの本の前書にはある。

もっとも有名な絵画の一つであるレオナルド・ダ・ヴィンチの「モナリザ」が、黒いドレスを着て、ヴェールをかぶっているのはなぜか。そして、モナリザ・スマイルを浮かべているのはなぜか。そんな永遠の疑問から始まる。

フィレンツェのウフィッツィ美術館にある、ブロンズィーノの「エレオノーラ・ディ・トレドと子息ジョヴァンニ」では、コジモ一世の美しい妻エレオノーラが、大胆で凝った唐草文様のビロード織りのドレスをまとっている。この精緻で華やかな絵画は、メディチ家の権勢を誇示すると共に、フィレンツェの優れた繊維・織物産業と芸術文化を内外にアピールするために描かれたものだという。

マリー・アントワネットが好んだという木綿の白いドレス。イギリスで綿モスリンが流行したのがフランスに入ってきたのだ。しかし、モスリン・ドレスは寒いフランスの冬には薄すぎて、スペイン風邪を引いて死ぬ婦人が続出。すると、今度は高価なカシミアのショールが流行する。カシミアのショールを流行させたのは、ナポレオンの妻ジョセフィーヌ。彼女がカシミアショールを肩にかけたり、膝にかけたりドレスのように着ている肖像画がいくつも残されている。

面白いのが、色と染料の話。ティツィアーノの「改悛するマグダラのマリア」のマリアは、なぜ縞模様の服を着ているのか。それは、彼女が娼婦であるということを示しているから。中世ヨーロッパにおいては、2色以上を使った縞柄は、社会からのはみ出し者のしるしだった。囚人服が縞模様なのも、そのような意味があったわけだ。

かつて、染料というのは高価なもので、フェルメールの「ターバンを巻いた少女(真珠の耳飾りの少女)のターバンに使われているブルーは、高価なウルトラマリンだった。アフガニスタンで採れるラピスラズリを砕いて作ったという。ブルーの染料は、大航海時代を経て、もう少し安いインディゴが入ってくる。だが、色を手に入れるためにその時代、人々は命すらも賭けた。そこまでして、色というのは魅惑的な存在だったのだ。そして、19世紀に合成染料が誕生したことで、服装史も美術史も大きく変わっていく。19世紀後半から、黒がファッショナブルな色としてもてはやされるようになるのも、合成染料の発達で、美しい黒を作り出すことができるようになったからということだ。

19世紀半ばには、パリの都市計画の発達に伴い、モードが出現する。ルノワールが描いたその名も「パリジェンヌ」という作品があるが、街を闊歩し劇場や舞踏会に現れるファッショナブルなパリジェンヌたちの姿を、ドガやマネ、モネ、モリゾらが描いた。そして、社交界とは別の、裏社交界=ドミ・モンドの女性たち=高級娼婦も登場する。美貌と才知で社交界を渡り歩いた彼女たちは、流行の先端を走っていた。まさに、「椿姫」の世界だ。印象派の時代の絵画は、女性たちの華やかな服装に目を奪われる。庶民の女性たちも、生き生きとしていて精一杯のおしゃれをしているのが感じられる。

この本の中でひときわ目を奪われたのが、ジョルジュ・クレランによる、伝説的な女優、サラ・ベルナールの肖像。ほっそりとした長身を優雅にくねらせてソファに腰掛けている彼女のなんとゴージャスなこと。細身を際立たせる白い絹のドレスがまた美しい。19世紀には、拷問器具のようなコルセットも登場し、細いウェストがもてはやされる。コルセットや下着姿の女性の絵画も見られるようになるが、これらのモデルの多くは高級娼婦であった。

20世紀初頭は、バレエ・リュスが一世を風靡する。もちろん、バレエ・リュスのことは知っているわけだし、ピカソやシャネル、ローランサン、ルオー、コクトーといった名だたる芸術家やデザイナーが関わっていることも知っている。だけど、バレエ・リュスがこれほどまでの一大センセーションをモードにもたらしたとまでは思っていなかった。レオン・バクストの独創的な舞台装置と衣装、そしてニジンスキーの超人的な踊り。

「バクストは、バレエ・リュスという舞台を絵筆だけでなく、色彩をまとわせた素晴らしい踊り手たちの躍動する身体という絵筆も使って立体的に描き出した。彼は、いわば動く絵とでもいうパフォーマンスとして、より現代的な作品を作り上げた」

バレエ・リュスが現代美術のアートでパフォーマンスと呼ばれるものの先駆けであった、それはもしかして常識なのかもしれないのだけど、個人的にはちょっと新しい視点で、面白かった。

写真が登場し、服が大量生産のものになってきて、モードを描いた美術作品は激減する。だけど、過去の美術作品に描かれた服装が、今も様々な芸術のインスピレーションの源になっているのはいうまでもない。服装は今も、時代や社会を映す鏡だ。絵画だけでなく、舞台芸術を観る際にも、もっと衣装に注目しようと思った次第である。豊富な図版はすべてカラーで、数々の名画に登場する女性たちの服装を見ているだけでも楽しい。

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2009/04/12

デュマ・フィス 「椿姫」 Alexandre Dumas, fils La Dame aux camélias 

椿姫 (新潮文庫) (文庫)
デュマ・フィス (著), 新庄 嘉章 (翻訳)

このとても有名な小説を未だ読んでいなかったので、ハンブルク・バレエの来日公演が終わってすぐ、新潮文庫版を買った。とても読みやすくて、あっというまに読み終えた。単なるメロドラマではなく、若書きの情熱がほとばしっていると共に、どんな人間も持つ暗い側面も描いていて深い作品だ。

ノイマイヤーは、ストーリーそのものは原作にかなり忠実にバレエ化している。マルグリットは、唯一最期を看取ったたった一人の友人ジュリー(バレエでは、侍女ナニーヌ)の他には誰に知られることもなく、窮乏した上に寂しく死んでいった。マルグリットの遺品のオークションから始まり、そして彼女が遺した手記をアルマンが読んでいく、というところまで同じ。

主人公二人のキャラクター設定はだいぶ違うところがあると感じた。一言で言うと、ノイマイヤーは優しい人なのだろう。原作のシビアで人間の本質を抉り出すようなところは省かれ、より主人公たちに感情移入できるように、そして彼ら二人にフォーカスできるようにキャラクターを作りあげたと感じた。

設定上、マルグリットは原作では20歳そこそこの若い女性だ。アルマンのことを一途に愛し、そしてその愛ゆえに苦しみ、孤独の中で死んでいくというところは同じだが、彼女が日記に綴った言葉を読むと、こんなに年若い女性が、ここまでの分別と知性を持ち合わせることができるのだろうかと思う。

そう考えると、ノイマイヤーがバレエ化に当たって、マルグリットを決して若くはない、むしろかなり年嵩の女性としたのは正しいと言える。原作の持つ残酷さを上手く転化してる数少ない場面。それは、病に臥せっているマルグリットが、衰えた姿に派手な化粧をし、ふらふらと観劇に出かけていくところだ。ノイマイヤーは映像では、若くはないマリシア・ハイデに化粧を落とさせて、素顔をさらさせている。

****

「椿姫」を一種の聖女物語と理解している人は多いと思う。悔い改めた娼婦、マグダラのマリア的なイメージだ。
だが、マルグリットは決して聖女ではない。

小説「椿姫」を読んで印象的だったのは、お金に関する記述の多さだ。マルグリットのパトロンは年収がこれくらいで、アルマンはこれくらいと。そしてマルグリットは月額いくらいくらのお金を浪費する贅沢好きの女として描かれている。そして、毎晩、宴から宴へと渡り歩く狂騒のような日々。アルマンを長時間部屋の外で待たせたりする。アルマンは、彼女が湯水のように使うお金を得るために、ギャンブルに手を出す。

二人が田舎に隠棲して、それがパトロンの伯爵に見つかってしまい、伯爵との関係を絶とうとするときに初めて、マルグリットはお金に対する執着を捨てて、質素に生きようとする。ところが、アルマンの父が二人の関係を引き裂き、再びマルグリットは華やかな日々に舞い戻る。しかしながら彼女の病が悪化し、パトロンたちの財政状態が悪化し、ついにマルグリットの部屋には情け容赦のない借金取りたちが現れ、病床の彼女を苦しめる。死の床にあっても、借金取りたちが彼女が出てくるのを待ち構えているような状態だ。

アルマンを深く愛しながらも、マルグリットは華やかな生活に対する執着、美しいドレスや宝石への執着が捨てきれない。(だからこそ、マノンに彼女は感情移入するわけだ)死を目前にしてようやく、彼女は純粋に愛そのものに転化していき、清められていく。そのあたりの心情の変化を綴るところが、この作品の白眉と言える。苦しみながら最期を迎えても、魂そのものは清められたということでは、この作品には救いがある。

マルグリットの友人である元娼婦のプリュダンス。ノイマイヤーの「椿姫」でも彼女は、マルグリットには親切そうに接しながらも、ティーセットを盗もうとしたり、マルグリットが伯爵につき返した宝石を拾って持って帰ったりと手癖が悪い女性として描かれている。小説のプリュダンスは、さらにお金に汚い年増女である。美しいクルチザンヌとして名高いマルグリットの名前を利用して方々から借金をして、結果的にマルグリットの借金が雪だるまのように膨らんでいく。そしてマルグリットが病に倒れてからは、足が遠のき、ついに見舞いにも来なくなる。

その美しさでパリの裏社交界の名花としてあがめられたマルグリットが、死の床についてからは忘れ去られ、見舞う人すらいない。人間というのは現金なものである。アルマンへの想いと少しの恨み言、孤独のつらさ、病の苦しみを切々と綴っている彼女の日記。やがてペンを握る力すら残されなくなり、最期を看取った友人ジュリーが代わりに彼女が亡くなるまでの様子を記している。マルグリットの臨終の、果てしなく続くような、身を切り刻まれるような苦しみまでも。

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P1010315s
(モンマルトル墓地にある、デュマ・フィスのお墓)

一方、アルマンはノイマイヤーが描いたアルマンよりもさらに直情的で、激情的で、若さがほとばしるイメージ。小説では、語り手である「私」が、偶然入った競売会場でマルグリットの遺品の「マノン・レスコー」を落札し、マルグリットの死を知ったアルマンがその「マノン・レスコー」の落札主を探して求めて「私」に出会うところから始まる。「私」に、アルマンがマルグリットとの出来事を語るという構成だ。

強烈なインパクトを残す序章に、アルマンのエキセントリックさが凝縮されている。アルマンはマルグリットの死が信じられず、彼女が本当に死んだという確証を得るために、彼女が葬られている墓を開けて、すっかり朽ち果てているマルグリットの遺体と対面するという凄まじい行為にまで出てしまう。「私」のもとにアルマンがやってきたときの様子からして尋常ではない。「金髪で背の高い、青ざめた顔色をした旅行服の青年で、その服は数日以来着たままらしく、ほこりにまみれていた」 「非常に興奮した様子で内心の動揺を隠す様子もなく、両目を涙にうるませ、声をふるわせながら私に言った」「マノン・レスコー」の本を渡すと、「「たしかにこれです」そう言ったかと思うと、二粒の大粒の涙が開かれたページにぽたぽたと落ちた」

デュマ・フィスがこの小説を書いたのは、24歳という若い時だった。いかにも若い作者が書いたと思える、火傷しそうな情熱がほとばしるような筆運びだ。理想主義者で、正義感に溢れている青年でありながらも、若さの持つ思慮の浅さ、人間としての未熟さ、残酷さ、向こう見ずさが鮮やかに伝わってくる。中でも、マルグリットに捨てられたと思い込んだ彼が、あてつけのようにオランピアと付き合い、マルグリットが苦しむ様子を見ながら喜び、悪口を言いふらすことまでするというむごい仕打ちを幾たびも繰り返すところは、あまりにも辛く、切り刻まれたマルグリットの思いが伝わってきて胸が苦しくなった。アルマンは、そうすることについて罪の意識すら持たず、自分がいかにマルグリットに傷つけられたかということだけを考え、復讐するかのように彼女の心の傷をさらにえぐる。

アルマンが長い物語を「私」に語り終えた後では、あんなにも激しくそして泣き上戸だった彼が、哀しげではあるものの元気を取り返していたということにも、救いがある。ノイマイヤーの「椿姫」の終幕で、マルグリットの日記を閉じたアルマンが、沈痛ではあるが、少し晴れやかな表情を見せていたのと同じ印象だ。

この小説に登場する聞き役の「私」は、ノイマイヤーの「椿姫」では、観客に該当する。

****
「椿姫」という小説は、人間の美しさと醜さを、鮮烈な筆致で生き生きと描いた作品である。ノイマイヤーの「椿姫」は観たけど原作は読んでいない、という人にはぜひ読んで欲しいと思った。この小説に、ここまでの深さがあるとは思わなかったのだ。何度も繰り返し読みたくなるような一冊だ。

そして、この原作の登場人物に近いのはどのダンサーだと、あれこれ想像するのも楽しい。サーシャ(アレクサンドル・リアブコ)は、とても純粋で思いつめるタイプだが、ノイマイヤーがこの作品に加えた優しさを感じさせ、原作のアルマンの残酷さはないように思える。マリシア・ハイデの映像でアルマンを演じているイヴァン・リスカは、背が高く金髪ということで外見的にはかなり近い印象。今のダンサーで言えば、やっぱり金髪のマリイン・ラドメーカーが原作のイメージに近いと思う。マチュー・ガニオも容姿的にはぴったりだと思うけど、ちょっと優しすぎるかな。

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2009/02/17

ハンス・クリスチャン・アンデルセンの「人魚姫」

アンデルセンの「人魚姫」

ハンブルク・バレエの「人魚姫」の15日のマチネの続き、ソワレの感想の続きを書こうと思っていたのですが、今日の夕方からまた寒くなり、そして土日で3本バレエを観た疲れ、さらに今日は仕事でバタバタしてしまってその疲れもあって、治りかけていた風邪がまたちょっと悪化してしまいました。水、木の「椿姫」、日曜日の愛知での「人魚姫」もあったりするので、ここで治すために一時中断します。

よく考えてみたら、アンデルセンの「人魚姫」って子供のときに読んで以来、ちゃんと読んでいなくてあらすじしか覚えていなかったので、もう一度読んでみようと思いました。
「人魚姫」の1955(昭和30)年7月20日初版の翻訳(楠山 正雄訳)は、青空文庫にあるため、全文をネットで読むことができます。この翻訳のタイトルは「人魚のひいさま」となっており、独特の言葉遣いになっていますが、それがまた一層味わい深く、物語を気品があるものにしています。

http://www.aozora.gr.jp/cards/000019/card42383.html

そして、金曜日に行われたノイマイヤーのトークショー(私は行くことができなかったので、内容については、Shevaさんのサイトでの詳しいレポートで教えていただきました)でも、ノイマイヤーが語ったことなのですが、「人魚姫」の結末は、今回原作を読んで初めて知ったのです。もしかして子供のときに読んでいたのかもしれませんが、すっかり忘れていました。人魚姫は、海の泡になって消えてしまうわけではないのです。

人魚は300年の命がある代わりに、その命が終わった時には海の泡になって消えてしまうことになっています。「死なないたましいというものがない。またの世に生まれ変わるかわるということがない。人間にはたましいというものがあって、それがいつまででも生きている、からだが土にかえってしまったあとでも、たましいは生きている」(「人魚のひいさま」より)

ところが、人魚姫は、自分が海の泡になって消えたと思った瞬間、"気息(いき)のなかま"の声を聴くことになります。

「あたしたちは、あつい国へいきますが、そこは人間なら、むんむとする熱病の毒気で死ぬような所です。そこへすずしい風をあたしたちはもっていきます。空のなかに花のにおいをふりまいて、ものをさわやかにまたすこやかにする力をはこびます。こうして、三百年のあいだつとめて、あたしたちの力のおよぶかぎりのいい行いをしつくしたあと、死なないたましいをさずかり、人間のながい幸福をわけてもらうことになるのです」(「人魚のひいさま」より)

人魚姫の肉体は消えますが、空気となり、そして「死なない魂」を手に入れるためにおつとめをする、つまり愛はかなえられなかったけれども、その魂はずっと残ることになるということに、この物語の救いがあるということです。ノイマイヤーの「人魚姫」では、アンデルセンの創った「人魚姫」という物語に、詩人と人魚姫の不滅の魂が受け継がれ、そして物語を通じて永久の命を得るということになります。

実は3回も「人魚姫」を観たのに、三回目にじわ~と少しだけ涙が滲んだだけで、この舞台を観て泣きませんでした。ところが、この原作を読んでみると、その語り口もあって涙が溢れてきて困りました。同時に、これは子供向けの話ではなく、大人向けの物語なのだと思いました。

ノイマイヤーの作り上げた「人魚姫」は、哀しく切なく感動的な物語では済まされず、善良さと裏腹にある残酷さ、美しさと醜さということ、そして同性愛者であった詩人の想いを人魚姫に反映された部分といった複雑な要素や人間の暗黒面、さらにはダークな諧謔性があります。性的な暗喩もあるように感じられます。だから、脊髄反射的に感動させないところがあるのです。だからこそ、彼の作品は深いともいえますが、好き嫌いは出てくると思うし、好きになれない人がいても当然だと思いました。

実は、ノイマイヤーの「人魚姫」を観たときに、私はラース・フォン・トリアーの映画を連想しました。特に「奇跡の海」と「ダンサー・イン・ザ・ダーク」の2本です。「奇跡の海」は大好きな作品ですが、「ダンサー・イン・ザ・ダーク」は大嫌いな映画です。この2本の映画では、いずれも、ヒロインが筆舌しがたい苦難の上に死を迎えます。
ラース・フォン・トリアーは、デンマーク出身の映画監督です。

ノイマイヤーの視線の方がずっと優しいのは言うまでもありません。

******
さて、アンデルセンの「人魚姫」を絵本で読みたいと思う方もいると思います。本屋さんで探して、とても素敵な1冊に出会いました。

金原瑞人が翻訳し、清川あさみの挿画による「人魚姫」の絵本です。布とビーズやスパンコール、刺繍で「人魚姫」の世界を表現しています。人魚姫の姿を手で刺繍し、海などは幾重にも重ねられた布やレースで繊細に描き、海に反射するきらきらした光の乱反射や人魚たちのうろこはビーズやスパンコール。海の深い青のグラデーションも美しいのですが、人魚姫が人間に変身し、踊る時の彼女の王子への恋心を表す淡い赤やピンクには香りたつような幸福感が現れています。魔女の森の不気味さの中のゴシックで妖しい美しさや、光るナイフはちょっと衝撃的。そして、空気の精となった時の薔薇色の雲と夕日のような光の色には、胸を締め付けられます。一つ一つの挿画(画というよりは、まるで舞台衣装を写真に撮ったようなイメージ)が一級の芸術品で、原画というかテキスタイルと刺繍の実物をいつか見られたらいいな、と思いました。
金原瑞人さんの翻訳も、人魚姫やその姉妹たちの海での生活を生き生きと描写しています。そして人魚姫の切ない、息苦しく胸が焦がすような想いや絶望が伝わってきて、とてもロマンティックだけど胸を締め付けられます。これを読むと、やはり「人魚姫」は大人向けに書かれた、繊細な心理描写の光る小説であることがとてもよくわかります。

人魚姫人魚姫
清川 あさみ 金原 瑞人

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2009/01/25

「幸せになっちゃ、おしまい」平 安寿子

以前「SWAN MAGAZINE」の最新号のところでもちょっと触れた、作家の平 安寿子さんのHanakoに連載されていたエッセイが、本になりました。平さんは、このエッセイを読んでみた方がいれば知っていると思いますが、バレエファンであり、特にハンブルク・バレエの大ファンで何回もハンブルクに観に行かれているほどの方です。時々このブログにもコメントを寄せてくださいます。

ちなみに、平さんのペンネームは、アメリカの作家アン・タイラーから取ったものだそうで、私も大学生の頃、市井の普通の人たちの哀歓を描いたアン・タイラーの本はすごくたくさん読んだものです。ところが、今調べてみるとアン・タイラーの邦訳はすでに絶版になっているものが多いんですね。「アクシデンタル・ツーリスト」や「ブリージング・レッスン」「ここがホ-ムシック・レストラン」など、もう一度読み返したいと思っても、図書館で探してみるしかないんですね。(これらの本は、実際図書館で借りて読んだものだったけど)「アクシデンタル・ツーリスト」は映画化されて、ジーナ・デイヴィスがアカデミー賞助演女優賞もとった作品だというのに。

Hanako連載当時から、平さんのエッセイはとても面白くて元気をもらえるものだったので、よく読んでいたものでしたが、改めて読み返すと、一冊の本になっても一貫としたテーマがあってまとまっている感じです。1953年とちょっと年上の平さんですが、人生の素敵な先輩かつ友達が書いたという感覚で読める、生きるヒントが満載です。また文章の巧みなこと!

このエッセイでも書いてあるように、雑誌で紹介されている女性というのは、たいてい、すごいキャリアがあって、家庭もあって、美しくて大成功を収めている人たちです。でも、私たちはそんな成功談を読みたいのではありません。「その他大勢だけど、いい仕事をする」という人に魅力を感じるというのはすごく納得です。平さんの小説に出てくる人たちは、不器用で、ときにはみっともないこともあるけど、夢に向かって生きている人が多い気がします。全部読んだわけではないんだけど。そしてこの本では、若い頃の平さんの失敗談もたくさん出てくるし、さまざまな、そのへんにいそうだけど素敵な人たちの話が出てきます。

もうすぐ30歳、もうすぐ40歳、というときに私たちはすごく焦るものです。この本ではそれを「三十怖い病」「四十怖い病」と呼んでいますが、こんな年になってしまったのに、今の自分はこんなにも未熟だというのは、今の自分もよく考えてしまいます。年齢に自分が追い付いていってません。だけど、実際自分が30歳になったり、40歳になったりすれば、そんなものはなくなってしまう。そして、若い頃、自分が何を目指しているのかわからないまま年を取ってしまうのではないかという不安は、年を取ってみると、解消されていくものだと教えてくれると、ちょっとホッとします。若い頃にはただつらい、と思っていたようなことも、何十年も立ってみるとそれが宝物だった、ということに気づいたりするとのこと。そう思えるようになりたいです。私たちのそんな悩みに、親身になって聞いてくれている存在、そんな本なのです。

ジュリー(沢田研二)の大ファンである女性たちが主人公の「あなたがパラダイス」という小説では、平さんは、更年期の女性心理を描いて見せましたが、この小説、そしてこの本を読むと、年齢を重ねていくことの怖さが解消されます。「イギリスのばあさんをめざせ」というエピソードにあるような、かっこよくそしてかわいいイギリスのおばあさんみたいになりたいなって思います。そして、何歳になってもガールズトークに花を咲かせる、と。ジュリーのファンも(私の母もジュリーファンでした)、バレエファンも、何か一つのものに夢中になっている人たちの話というのは、本当に尽きないし、面白いし、元気が出るものですよね。そんな女性たちへのエールになっているんです。

さて、もう一つの楽しみは、もちろん、平さんの語るバレエの話。「ジゼル」を観たことがある人なら、一度は思う、「なんでヒラリオンはあんなに一途にジゼルのことを愛しているのに、まったくその愛を理解されずに、ウィリたちに取り殺されてしまうの?」という疑問について、面白く語っています。彼の死についての解釈がまた、うまいんです。「バレエって面白いでしょ」って、今までバレエについて関心がなかった人にも、その面白さを巧みに伝えてくれています。

それから、もうすぐハンブルク・バレエの来日公演がありますが、来日公演で上演される「人魚姫」についても。王子への愛が伝わることない人魚姫と、(男性の)恋人への愛が成就しなかったアンデルセンを投影した「詩人」というキャラクターの痛み、その重ね方について、書かれています。「人を慰めるのはハッピーエンドではない」というのは、私もそう思います。ノイマイヤーの作品では、他にも「シンデレラ・ストーリー」や「眠れる森の美女」についても。この世の中には王子様もお姫様もいない、ただ愛し合う人の心があるだけだ、というノイマイヤーのメッセージ、それがあるから、彼の作品は普遍性があるのですね。目からいっぱいうろこが落ちる思いがします。

バレエファンでも、バレエに関心がない人でも、女性だったら誰でも面白いと思うエッセイ集だと思います。

そしてとびっきり素敵な台詞を一つ。頑張りすぎては、いけない。
「それでも、頑張れ、わたし」

幸せになっちゃ、おしまい幸せになっちゃ、おしまい
平 安寿子

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2008/10/17

「荒野へ」ジョン・クラカワー著

映画「イントゥ・ザ・ワイルド」の原作本。映画を観終わった後、すぐに同じラゾーナ川崎内にある書店で買い求めた。

アラスカの荒野に打ち捨てられたバスの中で餓死した青年、クリス・マカンドレスについて、ジョン・クラカワーが<アウトサイド>という雑誌から依頼され青年の死について取材し記事を書いた。その時の記事と、その後の話がこの本となり、そしてベストセラーとなった。多くの反響が雑誌に寄せられたけど、クリス青年への賞賛と非難の両方があったそうだ。「向こう見ずな愚か者、変り者、傲慢と愚行によって命を落としたナルシスト」との批判も多く、またクラカワー自身もそんなクリスを美化していると非難されたそうだ。

その反響の中に、一人の老人からの手紙があった。その老人こそ、映画の中でも印象的なエピソードのひとつを構成した、ロナルド・フランツである。映画の中でも、彼を演じたハル・ホルブルックの素晴らしい演技もあって、思わず涙を流さずにいられなかった。しかし、映画の中では語られていない、後日談がとても心を打った。フランツのもとをクリスが去ってしばらく後に、この生意気な青年から手紙が届いた。できるだけ早く今住んでいるところを出て、外の世界を見てみなさいと。そして、実際に、80歳を超えていたフランツは、家財道具のほとんどを倉庫に預け、アパートを出て、クリスがキャンプしていた砂地にテントを張ってそこで暮らし、来る日も来る日もクリスの帰りを待っていたというのだ。

このノンフィクションは、できるだけ中立的な立場を取り、クリスを突き放して公平に描こうとしている。彼のことを愚かだった、傲慢で未熟で、自然を見くびっていた、甘えていたと言う人は多い。そして、それは事実なのだと思う。そして、クリスがこの世の人ではなくなってしまった今、本当に彼が何を思い考えて、荒野へと分け入って行ったのかを知る由はない。
それでもなお、クラカワーは限りないシンパシーと愛を持って、この青年の生と死を見つめ、そしてその心情に寄り添った。なぜならば、クラカワー自身、父親に反発新があり、若い頃にはクリスのような無謀な冒険をした経験があったからだ。

クラカワー自身の、クリスと同じ年齢の頃にデビルズ・サムというアラスカの未踏の岩壁に挑戦した時のエピソード。「うまくいっていない私の人生を根底から変えてくれるものと思いこんでいた」けれども、命がけの冒険、多くの失敗を経て成功した後も、彼の人生は何一つ変わらなかった。それから、クリスと同じような冒険に出かけて、二度と帰らなかった多くの若者たちの生の軌跡もたどる。彼らのことを批判するのはたやすいことだ。彼らがいなくなったことで、どれほど多くの家族や友人たちが苦しみ、悲しんだことか。

あまりにも軽装備で、食料も武器も地図すらもろくに持たずに、アラスカの荒野へと旅立って行ったクリス。彼は、自ら死を選んだのではないかという説もあったほどだ。だが、彼は自分が生きている実感というものを得るために、あえて、大地が与えてくれる物のみで生きていこうと決心し、最果ての地まで出かけていったのだと思う。そして、限りなく透明で澄んだ、孤独で自由な存在になりたかったのだろう。

この本の最後に、クラカワーは、クリスの両親、ビリーとウォルトとともに、彼の終焉の地であるアラスカのバスまで出かけていく。このときのエピソードを読んで、両親の様子を思い浮かべると胸がつぶれる思いがする。また、クリスはほんの2,3の些細なミスで命を落としてしまったことも判る。気温が上がるにつれて川が増水し、渡れなくなったために彼は荒野の罠に落ちて、動けなくなったのだ。しかしながら、もう少し上流まで歩いていけば、ワイヤー伝いに川を渡ることだってできたのだ。

それでもなお、彼の冒険には意味があったのだと思いたい。平穏に日々をやり過ごしていくだけでは得られない宝物をその短い生涯の間に手に入れることができたのだと。そして、私たち自身も、新しいことに踏み出す勇気を持つべきであることを、彼は教えてくれた。何しろ、80歳の老人フランツでさえも、彼との出会いを通して、新しい人生に踏み出すことができたのだから。

荒野へ (集英社文庫 ク 15-1)荒野へ (集英社文庫 ク 15-1)
佐宗 鈴夫

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2008/04/21

「隠居宣言」 横尾忠則 著

美術家の横尾忠則といえば、大胆かつエネルギッシュな作風で楽しませてもらっていたのだけど、このたび「隠居宣言」という本を出したのだ。隠居っていうから引退するのかな?と思ってこの本を読んだら、さにあらず。70歳を迎えた今、隠居として、自分の好きなことだけをやって、肩の力を抜いた生き方をするということ。横尾さんがもう70歳だというのもびっくりなんだけど、グラフィックアートの仕事はもう受けないで生活の規模を縮小し、好きな絵を描いたり、好きな文章を書いたり、写真を撮って暮らしていくということ。落語に出てくる長屋のご隠居さんみたいなイメージで生活していくということだ。

あくせく暮らしている身からすると、なんとも羨ましい話だけど、まだ隠居するような年齢ではない読者にとっても生きているヒントのようなものがちりばめられていて、楽しい本になっている。そして、子供時代の話から健康法、死の準備まで、飄々とした語り口の中に考えさせられる話が満載だ。

三島由紀夫との思い出話が興味深い。彼と初めて会ったときの、礼節について教えられたエピソードは特に面白い。横尾さんにとっては三島との出会いが人生で一番大きな出来事であり、三島が亡くなった後もずっと続いている感じがするということだ。いろいろなエピソードが出てくるけど、三島由紀夫って人は基本的にお茶目でチャーミング、誰にでも愛されるような人だったみたい。

それから、モーリス・ベジャールとの思い出話もある。横尾さんはベジャールの「デュオニソス」という作品の舞台美術を依頼されていて、打ち合わせをして絵を描いたところ、その絵からさらに発想が広がって前の絵が必要ではなくなり、7景描く予定が20何枚描かされてもなかなか決まらなかったとのこと。そして「春の祭典」を一緒に鑑賞しながら、ベジャール、ドン、ヴェルサーチとミーティングをした話。突然ミラノからベルギーまで来てくれと日帰りで向かったり大変だったようだけど、エキサイティングだったこと。ベジャールも、ドンも、ヴェルサーチも亡くなり、いまや証言者は横尾さんだけになってしまったというのが切ない。

編集部が作った質問に対して横尾さんが答え、さらに後日横尾さんによる補足があるという形式。とても読みやすくて、何度となく読み返してしまう。同じような優雅な隠居生活はできなくても、このような生き方を手本にしたいなって思う。南伸坊さんによるイラストも飄々としていてかわいい。

「隠居宣言」をした横尾さんだけど、実際には活発に活動をしていて、「冒険王・横尾忠則」という回顧展が世田谷美術館で2008年4月19日(土) -6月15日(日)の会期で開催されています。見に行きたいなあ。
http://www.setagayaartmuseum.or.jp/exhibition/exhibition.html

期間中には、荒俣宏さんや中条省平さんらとのトークショーなども予定されています。サイトに載っている作品などを見ても、めちゃめちゃ面白そうです。

それから、横尾さんにはブログというか日記もあって、横尾さんの隠居の日常が伺えるのもとっても面白い。畑から観ると忙しそうに見えるけど、本人はいたってのんびりしているようだ。
http://www.tadanoriyokoo.com/vision/index.htm

隠居宣言 (平凡社新書 411)隠居宣言 (平凡社新書 411)
横尾 忠則

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2008/04/16

「まるごとパリの撮り歩き」星野秀夫 著

お友達の旦那様が出されたということで買った本なのですが、パリに行って写真を撮りたい、という方にはこれ以上優れものの本はないと思います。今後パリに行くときには持っていかなくては。

パリという街は、どこを見ても絵になる美しい街で、写真もいくらでも撮りたくなりますが、そのパリの街をいかに美しく撮影するかというポイントを書いています。それも、本格的なカメラに限定した話ではなく、初心者向けの一眼レフや、コンパクトデジカメを使って。写真の撮り方のテクニックやコツだけじゃなくて、どの地点から被写体にカメラを向ければ、素敵な構図になるか、地図で示してあるのが便利。

パリは、昼間だけでなくて夜景も美しい。エッフェル塔、シャンゼリゼ、ルーヴルのピラミッド、凱旋門などの夜景の撮影の仕方なども役に立ちます。もちろん、パリ・オペラ座を観に行く人にとって役に立つのが、どこから撮影すればオペラ・ガルニエやオペラ・バスティーユがきれいな構図で撮れるかも教えてくれていること。ガルニエのグラン・フォワイエなど暗い室内を、より豪華絢爛に写す撮影の仕方も。

そして、写真を撮らない人にとっても、美しい街の風景はどこに行けば見られるか、という観光ガイドブック的にも使えるのがミソ。7つの散策コースが示されているので、スケジュールや行きたい場所にあわせてコースを組むことができます。たとえば有名人のお墓はどこにあるなんて情報も。ニジンスキーのお墓の写真もあります。セルジュ・ゲーンズブールのお墓には、なぜかキャベツが供えてあるんですね。

写真についての本なので、もちろん、パリの美しい写真が満載。風景だけでなく、公園や広場、カフェなど何気ない日常の一こまをお洒落に切り取ってあるところなんかも素敵。

露出、シャッタースピードなどの基本的なことから、レタッチソフトの使い方、用語解説など、かゆいところに手が届く一冊になっています。

星野さんの、パリ写真撮影術については、NIKKEI NETでもインタビューが紹介されています。
http://waga.nikkei.co.jp/hobby/camera.aspx?i=MMWAi3000010042008

まるごとパリの撮り歩き―散策コース別美的デジカメ撮影術まるごとパリの撮り歩き―散策コース別美的デジカメ撮影術
星野 秀夫

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2007/12/17

「失われた時を求めて フランスコミック版」

読破することの困難さで有名な大長編小説「失われた時を求めて」(マルセル・プルースト著)が、フランスでコミック版が発売されていて、第4巻まで発売されているとのことです。(第4巻でも、まだ第一篇『スワン家の方へ』の第二部《スワンの恋》の前半まで)

この「失われた時を求めて フランスコミック版」の第一巻が、日本語翻訳されて、このたび発売されました。翻訳者は、映画評論でも有名な中条省平さん。早速買い求めたのですが、大判の、まるで美しい絵本のようで、全ページカラー。原作の抄訳的な内容なのですが、非常にわかりやすくて、細かい描写がなぜなされているのかという理由も、人間関係も、よくわかるようになっています。映画の台詞のような感じ。原文を読む際の手助けにはなるんじゃないかと思います。絵も、ちょっとフレンチなおしゃれなイメージで、コミックが苦手な人にも抵抗のなさそうな感じ。サクサク読めます。ただし、1巻は、第一部の最初の方、 『コンブレー   Combray 第一篇『スワン家の方への』の第一部《コンブレー》より』だけですが。

ちょうどパリ・オペラ座でのローラン・プティ振付の「プルースト 失われた時を求めて」公演のDVD発売が話題となっているという、良いタイミング。亀山郁夫さんによる「カラマーゾフの兄弟」など、古典の新訳がブームになっているし。(「カラマーゾフの兄弟」は今読んでいるんだけど、なかなか時間が取れなくて、進まない)

名作とされている文学をコミック化することについては色々と意見はあると思いますが、このコミック版をきっかけに原作にも取り組もうと思う人がいるでしょうから、とてもいいことだと思うんですよね。かく言う私も、学生時代に読もうとして挫折した一人です。(受験勉強のために源氏物語のコミック版「あさきゆめみし」を愛読していました)

フランス版のサイトです。
http://www.editions-delcourt.fr/catalogue/auteurs/heuet_stephane

ちょっとお値段が高いのと、大長編なので、いったい何冊出るんだろうか、ってことが不安になりますが、面白かったので次の巻もぜひ買い求めて読みたいと思います。1巻が売れないと、続きも翻訳してくれないようですし。

装丁もきれいな本なので、クリスマスプレゼントにも最適なんじゃないかと思います。

失われた時を求めて フランスコミック版 第1巻 コンブレー失われた時を求めて フランスコミック版 第1巻 コンブレー
ステファヌ・ウエ マルセル・プルースト 中条 省平

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英語版はamazon.comで扱っていて、現在3巻まで出ています。

Remembrance of Things Past: Combray (Remembrance of Things Past)Remembrance of Things Past: Combray (Remembrance of Things Past)
Stephane Heuet Marcel Proust

Nantier Beall Minoustchine Publishing 2001-08
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Average Review

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でも、この素敵な本を、お風呂の中で読んでいたら間違えて湯船の中に落としちゃったのよね・・・・。

2007/06/04

「猥談」岩井志麻子

映画評論家のT師匠にお勧めされて、本を買った。しかし、そのT本師匠ですら、本屋で買うときに恥ずかしくて、一緒に「ローズ・イン・タイドランド」の原作本も買うという、まるでAVをレンタルビデオ店で借りる時のような行動をされたという。

その本とは、ずばり「猥談」である。しかも、かの岩井志麻子女史の対談集なのだ。

そういうわけで、私も書店で買う勇気がなくて、アマゾンで、ABTのカレンダーと一緒に買った。が、ひとつ落とし穴があって、アマゾンで買うとカバーがついてこないのだ。私は本はほとんど通勤の電車やバスの中で読むのに、これでは読めないではないか。。結局、立っているときは題名が見えるので読まなかったけど、座れたら、どうせそこまで覗き込む人もいないだろうと思ってそのまま読んでいたわけだが。

それにしても、岩井志麻子というのはすごいお方だ。
たとえばこの水道橋博士のサイトを読んで、死ぬほど笑ってしまった。ここまでエロい人を極めると、爽快ですらある。

http://blog.mf-davinci.com/suidobashi/archives/2005/01/post_3.html

実は私、岩井志麻子は「ぼっけえ、ぎょうてえ」しか読んでいないし、これを三池崇史がアメリカで映画化したものの過激すぎて放映できなかったというオチがついた「インプリント」も見逃してしまったのだが。

対談相手はとっても豪華で、野坂昭如、花村萬月、そしてこの本が出た後に亡くなられてしまった久世光彦である。

野坂さんはさすがに「エロ事師たち」を出しているだけあって、エロ話の達人である。すごいね~ヤギとかいろいろ出てくるんだもの。「指に始まって指に終わる」んだそうな。そして岩井志麻子は負けず劣らず、すごい経験談を語っておられる。ハメたままの原稿書きとか、ね。ところが、こういうエロ話って、全然いやらしく感じなくて、笑えてしまうのだよね。マルキ・ド・サドの「ソドムの百二十日」などを読んだ時と同じような感覚かな。お天道様の下に出たとたん、隠微さが消えてなんだかあっけらかんとしている。それに、岩井志麻子はエロいおばさん、というのを自分のキャラにして売っているところもあるからね。

花村萬月も、この間見た映画「ゲルマニウムの夜」に見られるような強烈な世界観を持った方だけど、いろいろとすごすぎる経験をしているのに、なぜか人の良さや優しさが伝わってくるからいいなあと思う。情の深い人なんだな。二人で散々朝日新聞の悪口を言っておきながら、実はこの本は朝日新聞社から出ているというのも笑える。「魔羅道」とか広告に載せられないようなタイトルの本が多いしね~。そして二人で性病自慢。

久世光彦は、ものすごく頭の良い人と思った。岩井志麻子の、キャラクターを作っている部分を見事に見抜いている。それに対して、彼女が「私は今ファーストクラスに乗っているけど、いつフライトアテンダントが「お客様の席はここではなくて」って言い出さないかとびくびくしている、なんて正直に告白しているから、彼女も実はいい人なのかもしれない、なんて思ったり。うんと年をとった彼女がどんな本を書くか楽しみだといいつつ、「岩井さんが70歳になるまでは僕も生きていないから」って言ったら、本当にすぐに亡くなられてしまって...。ちょっと切なかった。

新潮45の中瀬ゆかり編集長によるあとがきも秀逸。

そういうわけで、読後感はかなり爽やか。こういうパワフルな人たちがいると思うと、世の中悪くないなあ、なんて思ってしまったのであった。まさに性は生である。

猥談 (朝日文庫)猥談 (朝日文庫)
岩井 志麻子

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