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« 東京バレエ団の芸術監督に斎藤友佳理氏就任 | トップページ | マリインスキー・バレエ2015年来日公演キャスト/追記 »

2015/02/16

ジェローム・ベル レクチャーパフォーマンス「ある観客 Un Spectateur」

「ザ・ショー・マスト・ゴー・オン」、パリ・オペラ座バレエで上演された「ヴェロニク・ドワノー」などで知られている振付家、ジェローム・ベルのレクチャーパフォーマンス「ある観客 Un Spectateur」が早稲田大学の小野記念講堂で開催されました。

http://web.waseda.jp/enpaku/ex/2527/

振付家としてよく知られているジェローム・ベル(来シーズン、パリ・オペラ座でも新作を上演する予定)の講演ですが、彼自身の作品について語るものではありません。「ある観客」とは、無類のダンス/演劇好きであるジェローム・ベル自身のことであり、観客として目撃してきた様々な舞台について、身振りを交えながら語るものでした。

お金があったら振付や演出などしないで、観客として舞台を浴びるほど観ていたいというジェローム・ベルならではの、観客論。それを通して、私たちは観客としてどのように舞台を観れば良いのか、というヒントがたくさん得られて非常に刺激的で面白いレクチャーでした。また、通訳の福崎裕子さんは、パフォーマーとして「ザ・ショー・マスト・ゴー・オン」に出演したこともあり、舞台について造詣が深く見事な通訳ぶりでした。

高名な演出家といえども、観客としての姿勢というのは、実のところあまり私たちと変わらなかったりするのが面白かったです。つまらない舞台でも、一人のダンサーが大変美しかったので彼女を見ていたら満足してしまったとか、仲間同士でサークルを作って、手分けして舞台を観に行ってSMSで情報交換しているとか、マニアックな一般の観客と似たような姿勢で観ているんですよね。ただし、それゆえ、舞台は観客がいて初めて成立する、ということを彼は誰よりもよくわかっているし、舞台から非常に多くのものを受け取っているということを実感しました。

フィクションである舞台、劇場があるからこそ、私たちは現実の世界を別の視点で観ることができるという視点は、なるほど、と膝を打ちました。そしてフィクションと現実世界を区切るものとして拍手は存在しているということ。何気なく公演の終わりに私たちがしている拍手というものには、このような意味があったんだと目から鱗が落ちました。舞台の見方が大幅に変わりそうです。舞台と人生との関係について深く考えさせられました。


ざっとレクチャーの内容を紹介してみましょう。(テープ起こしをしたわけではなく、聞き書きです。聞き間違いがあるかもしれませんので、その点はご容赦ください)


「劇場の一番良い席に座っているのが観客です。演出家は不安に満ちているものですし、私がもしお金があったら一生、観客として過ごしたいと思います。何も批評せず考えずに作品を楽しむのが理想なんです。でも、生活費を稼ぐために、舞台を観ることができるためには、私は自分自身の舞台を作らなければならないのです。

<時間について>

1992年に、ロバート・ウィルソンの「浜辺のアインシュタイン」という作品の、パリでの再演はソールドアウトでした。席を買えるのなら、売春をしてもいいと思うほどでした。ようやくチケットを手に入れましたが、作品は4時間半で休憩時間なし。その代わり好きな時に外に出ても良いということで、途中出てバーで知り合いと話し、2時間経過していたと思ったら実は30分しか経っていなかったということに驚きました。その作品に対する欲望がありすぎて、実際の上演時間がわからなくなってしまったのです。自分自身の欲望を管理しなければならない、上映時間がどれくらいなのか絶対的に知る必要があると思うようになりました。10分の作品と5時間の作品とは違います。

<空間と舞台技術について>

マース・カニンガムの「レインフォレスト」という作品は、アンディ・ウォーホールが舞台美術を担当しました。ロバート・ラウシェンブルク作の、銀色の布で作った枕にヘリウムを満たして浮かせ、その枕を使ったダンスで今まで体験したことがないものでした。ダンサーが動くと、上に浮いている枕も微妙に動く、ダンサーの作り出す空気による効果、ダンサーが作り出す風、息吹が見事だった。

トリシャ・ブラウンの振付作品で、ドナルド・ジャッドが舞台美術を手掛けた作品は、スクリーンがあるだけだけど、それが鮮やかな色をしていて様々な場所に置かれていました。スクリーンが時々上がり、下がったりすると背景の色が変わります。二人のダンサーの間にスクリーンが下りて、体が動くのが見えると素晴らしい感動がありました。スクリーンの後ろでダンサーが動いていると想像し、スクリーンが上がったら二人のダンサーが動きづづけていました。ニューヨークで私が「ある観客」のパフォーマンスレクチャーを行った時、トリシャ・ブラウン・カンパニーのダンサーが来ていたので聞いてみたのですが、あの時、スクリーンの後ろでダンサーは踊っていなかったとのことです。

<劇場における理解>

ブダペストで数か月滞在した時のことです。ハンガリーのマジャル語は私にはまったく想像がつかない言葉でした。そのブダペストでチェーホフの「三人姉妹」を観に行きました。原作は読んでいなくて、全く何も知らないで観に行ったのですが、驚いたことにすべての内容がわかって感じ取ることができ、緊張感があり、感動しました。言葉がわからないのにすべて理解したのです。フランス語で「三人姉妹」の戯曲を読むと、舞台のことを細かく思い出すことができ、視覚化できました。ひとことも理解していないのにすべて感情も理解できて、レースのハンカチを持っていることで、この女性が結婚したいと思っていると感じることができたのです。理解するというのは正確ではありません。言語を経由しない、何らかの感覚を感じて観客となることができたのです。

ヤン・ファーブルの「Das Gras(頭の中のコップはガラスでできている」という作品は、4人のクラシックバレエのダンサーが、クラシックバレエのシンプルなパを踊るという振付でした。ファーブルはダンスをしたことがないので単純なパで30分、ダンサーたちが前に進み、後ろを向いて同じパで元に戻るというもので、観ていて腹が立ってファーブルを憎んだ。私自身がダンサーだったので、疎外された表象であると感じ、舞台上のダンサーを自分と同一視したからです。このような作品に出演するのは受け入れられないと思いました。しかし一年後パリで、もう一度観に行った。2回目は素晴らしい作品だと感じました。振付を、ダンサーとしてではなくアーティストとして同一視しました。ヤン・ファーブルをアーティストととして感銘を受けたのでした。ダンサーを疎外し、変質させる性格を見せたのでした。

観客であるからと言ってすべてを理解できるわけではありません。そういう思い上がりが舞台を楽しむ邪魔をすることがあります。劇場において、観客として報われない思いをしたことがあります。作品がつまらなかったのです。その時は、私は8人のダンサーのうち一人の美しいダンサーだけを見つめていました。結果的に、作品が終わった後に、私はとても満足したのです。作品を観るというのは、官能性がある、エロティシズム的な行為であり、作品の99%は官能的な関係に基づいていると言えます。

<表象の権力>

クラウディア・トリオーディというイタリア人でパリで活動しているダンサーは、居心地の悪さ、抱えている問題を演じていて、素晴らしい作品でした。マイナスの感情を使って一つの芸術作品を作り上げていました。自分の中の問題を使って芸術を語っていて、動揺しました。彼女本人と話した時には動揺はしなかったのに。

<自分自身と演劇の関係>

観客として舞台、演劇を観る時はただの観客として受け取っています。舞台の上で最悪のことが起きても、フィクションとして受け取ることができます。現実に起きたら耐えられないようなことでも。

ライムント・ホーゲの「私に向かって」
ライムント・ホーゲは、ピナ・バウシュのところでドラマトゥルグとして働いていて、独立しました。私は彼と96年に出会いました。彼は身体障碍者であり、背中も曲がっていて、同性愛者です。ユダヤ人のオペラ歌手、ナチスの被害者、AIDSで亡くなった人などが登場します。その前の年に私は2人の親しい友人をAIDSで亡くしていたこともあり、動揺し打ちのめされました。一人はユダヤ人で一人はキリスト教徒でした。この作品を観ることで、私は彼らの葬式を経験した気がしました。非宗教的な儀式です。すべてが自分の中から出てきてカタルシスを感じました。それまでは葬式は必要ではないと思い彼らの葬儀にも参列しなかったのですが、亡くなった人の儀式が必要だと感じるようになりました。

<子供のための作品>

「ウーグリー・ブーグリー」という8人の赤ちゃんのための作品を観ました。ふくらませて作るお城の中での作品です。生後4か月の私の子供も参加しました。8人の赤ちゃんと、6名のダンサーが踊ります。ダンサーは赤ちゃんの前に座り、赤ちゃんの真似をダンサーがします。赤ちゃんはダンサーが自分の真似をしているのに気が付き、歩き始めます。ダンサー3人が壁に向かって走ると、赤ちゃんは大喜びしていました。赤ちゃんとコミュニケーションに入る方法を彼らは見つけていたのです。

ジャン・クロード・ガロッタの「3世代」という作品では、20分ずつ、3世代のダンサーに踊らせていました。作品は退屈でしたが、観客の子供が、舞台上で踊られているものを真似しだしたのです。舞台上のダンサーと自分を同一視し、自分を舞台の上に探し始めるのです。


アラン・プラテルの「バッハと憂き世」では、実在の独裁者の名前を舞台上で怒鳴りつづけます。ずっと続くので、いらだってしまいます。ヒットラーについて直接語るのはどうかと思ったのです。出演者全員が10分間舞台の上で泣き続けます。表象不可能なものが描かれているので耐えがたく感じました。そうしたことの結果が本当に悲劇的なものであると感じることができました。

ピナ・バウシュの「パレルモ、パレルモ」では4人のダンサーが4組ずつ舞台奥から出てきます。バスケットを抱えてて、ごみがたくさん入っています。そしてカンパニー全員が舞台上でごみを取って音楽に合わせてごみをまき散らします。これを観て、私はもうごみは捨てられないと学び、ゴミひとつ投げ捨てることができなくなりました(笑)。

「ハムレット」の舞台では、ハムレット役をアンゲラ・ディングラーという女優が演じていました。映画「ブリキの太鼓」にも出ていて好きな女優でした。悲劇的な苦しみを感じさせ、有名な「生きるべきか死ぬべきか」の独白のシーンで、私は舞台に上がって彼女を抱きしめたいと思いました。突然声が出てきてそうしろと指示するのです。もう一つ、そうしてはダメだという声も出てきて、それをやめるべきだという声が勝ちました。観客としての理性が私を引き留めてくれたのです。数年後に彼女に出会って一つのプロジェクトを創っていました。休憩時間にこの話を彼女にすると、『とても変なことね』と言われました。

ある舞台では、観客が全員自分の友人だと思いなさい、不幸を友人に打ち明ける、自分を助けてほしいと訴えかけるように、と思って演じました。

<拍手について>

拍手は、目に見える観客の反応です。今回歌舞伎を観たのですが、歌舞伎で俳優が最後に出てきて挨拶をしないのが意味が分からないと思いました。日本の観客の拍手はいつもあまり長く続かないように感じているのは、歌舞伎の伝統があるからなのでしょうか。

パリで、カフカの「流刑地にて」を観ました。これは恐ろしい作品で、スキャンダルになりました。作品が終わらなかったので、誰も拍手をしなかったのです。つまり俳優たちは舞台で挨拶をしなかったのです。「作品を終わらせろ」というデモまで行われたのです。哲学的に舞台は終わるべきであるということで、哲学者協会で集まり、どうしても終わらせるんだとクッションやサンドイッチを持参して劇場にとどまったのです。舞台が終わらないということはあり得ないということを説明していました。フィクションというは終わるべきものであるということです。演劇において、拍手はフィクションを終わらせるものです。舞台の上にフィクションはあり、自分を目覚めさせ、現実に戻る方法として拍手をしてフィクションを終わらせることをやめさせ、厄介ばらいをできなくなるようにしたのです。私は、演出家は素晴らしいと思いました。

作品を気に入らない時でも作品の終わりには拍手をしている自分に気づき、私は苛立ちました。好きでもないのになぜ拍手をしてしまうのか。上演中に自分自身を訓練しようと思いました。好きな作品ではない時に拍手をしないように自分の身体を訓練させました。それができるようになった時に、自分を誇らしく思いました。

フランスの演出家クロード・レジェの「伝道の書」。レジェはSPAC(静岡)でも演出をしています。彼は17歳半のような気がしました。あまりにも革新的でした。一人の俳優を使って、聖書の伝道の書を伝えるものですが、セリフを言えないのです。どうしても言えない、言葉が出てこないのです。これは驚くべき経験でした。観客は誰も拍手をしませんでした。限界のところに迫っていくので、普通の拍手はふさわしくないのです。習慣的ではない、全員が暗黙の一致をしていたかのようでした。

観客は、一人一人が演劇博物館であり、観てきた演劇の残滓が中に存在しているのです。コレクションも自分の中に持っているのでしょう」


(質疑応答)

ライムント・ホーゲの身体性は重要なものです。彼はダンサーとして舞台に立ち、そこから逃れていません。それは芸術的な行為です。障碍者の身体を社会は隠しますが、身体を見せることによって芸術的な素材としています。なるべくさまざまな身体を見せることが大事です。普通と違う身体は、劇場で観るために存在しています。他で観られないものを見せるために、劇場は存在しています。他で見ることができないものを見せるところが芸術の使命です。

「最後の観客」は可能ですか?

舞台は実人生とのかかわりがあるので自分の人生の理解ができます。表象が終わるということはありません。観客がいないと実人生だけが残ります。

観に行く作品を選ぶ基準は?

スペクタクルとかかわりたいという欲望を持っています。なぜわざわざ劇場で観たいという欲望が起きるのでしょうか。劇場で観るというのは高価であり、投資をしなければならないという問題があります。私はパリの友人たちと何を観たかという情報交換のネットワーク、演劇クラブを作り会長となりました。すべてを観るのは不可能なので、担当を決めてSMSで情報交換し、この作品はつまらないからチケットを売ってしまったほうがいいとか、ライバルにチケットを売りつけたほうがいい、などと言い合います。

自分自身には、自分の作品は観客程よくは見えません。そうでなければ、私の作品は人には見せません。自分が作った作品が何なのかは、観客がその作品を観てからわかります。観客の反応を見て、なるほどそういうものだったのか、観客のまなざしが何より語ってくれます。見せることによって自分自身が何なのかを理解できるのです。一番素晴らしい場所は観客席なのです。

The Show Must Go Onでは、最後舞台の上に何もなくて、観客にバラ色の光が当たります。エネルギーは観客席にあり、いつもそこには観客がいて生きているのです。それはとても重要なことなのです。

**********
「劇場は現実世界から遠く離れたところへ私たちを連れていってくれる。その遠いところから私たちは現実世界や自分自身を見直し、問題を提起できる。劇場がなければ、私たちは現実世界を別の視点から見直すことはできない」 そして、その遠いところと現実世界を隔てるものは、拍手であるということなのだと、このレクチャーパフォーマンスで感じることができました。フィクションというものは、人生にとっては不可欠なものなのだと改めて実感した次第です。舞台というものの持つ力と、ジェローム・ベルの、舞台への深い愛も実感しました。

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