ジョン・ノイマイヤーの「ニジンスキー」といえば、ハンブルグ・バレエの来日公演を覚えている方も多いと思うのだが、初めてハンブルグ・バレエ以外で上演されたのがナショナル・バレエ・オブ・カナダ。2013年に上演された際に好評で、すぐに翌年の再演が行われた。

作品の解説(ハンブルグ・バレエのサイトより)
http://www.hamburgballett.de/e/_nijinsky.htm
プロモーション映像(ノイマイヤーのインタビュー有)
http://youtu.be/Uw6OoBWA3OY
ボリショイ祭りの合間を縫って、4日間でトロントに行ってきて「ニジンスキー」を観てきた。
トロントの観客は、バレエ観劇を社交の一端ととらえている感じが強く、また家族連れなども多かったりして比較的観客は保守的だと言われる。「ニジンスキー」の前に上演された「マノン」が、マルセロ・ゴメスまでゲストに迎えたのにもかかわらず、チケットセールスは芳しくなかった。しかしながら、この「ニジンスキー」に関しては、非常に客の入りが良かったようで、最終日はなんとソールドアウトになったという。口コミで盛り上がり、リピーターも多かった模様だが、それは作品の力によるところが多かった。もちろん、ナショナル・バレエ・オブ・カナダのダンサーの力量も素晴らしかったと感じた。

Nijinsky
A ballet by John Neumeier
Choreography, Sets*, Costumes* and Lighting Design: John Neumeier
*based partly on original sketches by Léon Bakst and Alexandre Benois
Music: Frédéric Chopin, Robert Schumann, Nikolai Rimsky-Korsakov and Dmitri Shostakovich
Lighting Reconstruction: Ralf Merkel
Premiere: The Hamburg Ballet, Hamburg, Germany, July 2, 2000
The National Ballet of Canada Premiere: March 2, 2013
Vaslav Nijinsky Guillaume Côté ニジンスキー : ギョーム・コテ
Romola Nijinsky Xiao Nan Yu ロモラ・ニジンスキー : シャオ・ナン・ユ
Serge Diaghilev Evan McKie セルゲイ・ディアギレフ : エヴァン・マッキー
Bronislava Nijinska Jenna Savela ブロニスラヴァ・ニジンスカ(ニジンスキーの妹) : ジェナ・サヴェラ
Stanislav Nijinsky Dylan Tedaldi スタニスラフ・ニジンスキー(ニジンスキーの兄) : ディラン・ティダルディ
Eleonora Bereda Svetlana Lunkina エレオノラ・ベレダ(ニジンスキーの母) :スヴェトラーナ・ルンキナ
Thomas Nijinsky Brent Parolin トーマス・ニジンスキー(ニジンスキーの父) :ブレント・パロリン
The Golden Slave/The Faun Keiichi Hirano 黄金の奴隷/牧神 平野啓一
The Spirit of the Rose Naoya Ebe 薔薇の精 江部直哉
Tamara Karsavina Sonia Rodriguez タマラ・カルサヴィナ: ソニア・ロドリゲス
The New Dancer Leonid Massine Skylar Campbell レオニード・マシーン :スカイラー・キャンベル
Harlequin in Carnaval Naoya Ebe 「カルナヴァル」のアルルカン 江部直哉
The Young Man in Jeux Skylar Campbell 「遊戯」の若い男 : スカイラー・キャンベル
Petrushka Jonathan Renna ペトルーシュカ : ジョナサン・レンナ
「ニジンスキー」はもちろんハンブルグ・バレエの作品であり、ほぼ毎年のように上演されている重要なレパートリーの一つである。したがって、ハンブルグ・バレエと同じレベルの上演にするのは至難の業だ。私はハンブルグ・バレエの「ニジンスキー」を最後に観たのはハンブルグで2007年ということで、かなり前のことになってしまうのだが、圧倒的なインパクトを与えられたことはよく覚えている。2005年の来日公演で観たイリ・ブベニチェク、2007年に観たアレクサンドル・リアブコ、タイプは違うけど二人ともとてつもない表現力を持つダンサーである。リアブコは、ナショナル・バレエ・オブ・カナダの初演でもゲスト出演をした。
さて、カナダでの上演はどうだったか。今回が再演になるということで、少し馴染んできた部分もあると思われる。そして今回も、初日までジョン・ノイマイヤー本人が振付指導に携わった。もちろんハンブルグ・バレエと同じレベルの上演であるとは思わないが、カンパニー全体の上演クオリティは極めて高かったと思われる。クラスレッスンなどで、何人かのダンサーと話をしたのだが、ノイマイヤーの「ニジンスキー」という作品を踊ることができるという喜びが、カンパニーにとって大きなモチベーションになっているように感じられた。
World Ballet Dayのリハーサルから、2幕、スタニスラフとニジンスカの凄まじいソロ
http://youtu.be/YF7r3YPAF7M
幕はなく、劇場に入ると、ニジンスキーが観客の前で最後に踊ったスイス、サンモリッツにあるスヴレッタ・ホテルの白いセット。着飾った男女が入ってくるが、その中には、ニジンスキーの父トマス、母エレオノラの姿もある。真っ赤なドレス姿の妻、ロモラも。「神との結婚」と呼ばれた1919年1月19日午後5時のパフォーマンス。白い着物のような衣をまとったニジンスキーが歩み出るとそれを脱ぎ、黒いパンツ姿でピアノの音に合わせて軽やかに舞う。この踊り自体には、まだ狂気の影は観られない。背後に現れる黒いシルクハットにタキシード姿のセルゲイ・ディアギレフ。邪悪なまでの響きをさせる彼の拍手によって、踊りは一度遮られる。
『シェヘラザード」の音楽とともに、ニジンスキーが演じてきた様々なキャラクターが登場して彼とともに踊る。ニジンスキー自らが踊る「レ・シルフィード」の詩人を始め、「シェヘラザード」の黄金の奴隷、「牧神の午後」の牧神、「薔薇の精」、「アレキナーダ」のアルルカン、「ペトルーシュカ」。これらのキャラクターは、ニジンスキーの分身であるとともに、彼を苦しめ惑わす幻影でもある。彼を見出し、愛し、様々なことを彼に教えたディアギレフ。時には父のように温かく見守ることもあれば、厳しく接することもあった。ニジンスキーとディアギレフのパ・ド・ドゥには、2人の複雑な愛憎関係が見て取れて、しまいにニジンスキーを突き放すディアギレフの冷酷さと激しい憤怒が伝わってきた。
妖艶に踊るニジンスキーに恋し、バレエ・リュスに押しかけ入団して、しまいには彼の妻となるロモラ。船上で繰り広げられる、ニジンスキーとロモラ、牧神の三者によるもつれ合ったパ・ド・トロワには、人間としてのニジンスキーより、彼が演じた幻影を愛してしまった淫蕩な女ロモラの姿が見て取れる。
ニジンスキーは「遊戯」「牧神の午後」「春の祭典」と、ほかの誰にも真似のできない、唯一無二の作品を創作していき、それらの作品のモチーフがところどころに現れる。「遊戯」の若者は、やがて彼にとって代わりディアギレフに愛されるレオニード・マシーンだ。古典的な中にモダンさもある美しいバレリーナは、タマラ・カルサヴィナ。バレエ・リュスを彩ったダンサーやキャラクターが乱舞する様子は、えも知れぬ陶酔感をもたらす。
ニジンスキーには、振付家として名を残す妹ブロニスラヴァ・ニジンスカの他に、同じくダンサーを志していた兄スタニスラフがいた。だが、スタニスラフは転落して頭を打ったことが原因で少しずつ狂気に囚われていく。妻の情事。第一次世界大戦の影も、さらにニジンスキーの苦悩に拍車をかける。バレエに革命をもたらした「春の祭典」の狂乱と、戦争の狂気、スタニスラフの死が重なり、ニジンスキーはさいなまれる。ロモラとの結婚に激怒したディアギレフによりバレエ・リュスを追放されたニジンスキー。やがて完全に狂気に陥った彼を、悪妻と呼ばれたロモラは支えていく。橇に焦点の合わない目をした夫を載せて引きずって歩いていくロモラ。そして冒頭の「神との結婚」へと物語は、舞台上に現れる円環のモチーフのように戻っていく。

カナダで「ニジンスキー」を上演する発端となったのは、ギョーム・コテがこのタイトルロールを演じることを熱望したことからだった。そろそろ、ダンサーとしての代表的な役が欲しいと思った彼の思いを汲み、芸術監督のカレン・ケインがノイマイヤーに談判して実現した。その前にも、ナショナル・バレエ・オブ・カナダはノイマイヤーの「かもめ」を上演している。
それだけこの役を演じることを望んだだけあって、コテは大変な熱演ぶりだった。彼は、リアブコのようなキレキレのテクニシャンタイプのダンサーではないし、彼のように役が憑依するタイプでもなければイリ・ブベニチェクのような繊細さも欠けている。コテは真正面に、愚直なまでに役に向き合った。彼は最初から狂っているわけではない。自分の芸術に真摯に向き合い、美と芸術に取り憑かれるあまり、自らが演じ、そして作り上げたキャラクターたちに思考を支配され、狂気へと至っていくのだった。普通の人が狂ってしまうのが一番怖い。この役を4回演じた彼、4回目に、ついに振り切れて、ラスト「神との結婚」の凄まじいソロへと至っていく。リアブコやイリ・ブベニチェクの印象が残っていると、物足りないところもあるかもしれない。だが、コテは、自分の持てるものをすべて誠実に出し切って、忘我の境地に達し、最後に燃焼つくしたことを感じさせた。それは観客の感情を大きく動かすものであった。
ニジンスキーの妻、ロモラは複雑なキャラクターだ。彼女は明らかにニジンスキーより、彼の演じるキャラクターである黄金の奴隷、牧神、薔薇の精の官能的な姿態に惹かれている。人間ニジンスキーではなくて、幻想である客らたーを愛したのだ。それがやがて、ニジンスキーが妻に対して疑念を抱く原因にもなっていく。ロモラは、ニジンスキーが狂気に陥ってからも、ニジンスキーの医師と情事を重ねるが、一方で夫を支え続ける。ロモラ役のシャオ・ナン・ユは大柄でともすれば大味になりがちなところがあるダンサーなのだが、ここでは抑え目に、他人に理解されづらいロモラという悪妻をひたむきに演じて好演していた。別キャストでロモラ役を演じたのは、スヴェトラーナ・ルンキナ。彼女が演じたロモラは、凛としていて強い中に脆さがあり、色香漂う中に情感もあり、こちらは圧倒的だった。ルンキナに惚れ込んだノイマイヤーは、彼女のために新作を創りたいという意欲を燃やしているという。
ディアギレフにはエヴァン・マッキー。怪我で降板していたのだが、数日前にノイマイヤーたっての依頼で出演することになったのだという。黒いシルクハットとタキシードが、これ以上似合う人はいないのではないかと思うほど、ぞくぞくするような美しさ。実際のディアギレフは美男ではなかったが、ハンブルグ・バレエの初演もイヴァン・ウルバンという美形ダンサーが演じている。ディアギレフに容姿は似ていないが、優雅な一挙一動にカリスマ性を漂わせ、洗練された身のこなし、そしてニジンスキーを操り、支配する暴君さながらの様子。エヴァンならではの、役を何層にも分析して作り上げる手法が見事に効果を上げていた。後姿だけでも、凄まじい威圧感を見せている。冒頭、ステージ後方にひっそりと姿を現しただけでも不吉なものを感じさせ、エレガントな手つきで拍手する音にも身震いさせられる。ディアギレフは、ニジンスキーとのパ・ド・ドゥだけでなく、黄金の奴隷とのパ・ド・ドゥもあり、相手男性ダンサーをリフトする必要のある難しい役だ。怪我から明けたばかりのエヴァンだったが、サポートには定評があるだけあって、しっかりと持ち上げて、妖しく、そして緊張感あふれるめくるめく場面を作り上げていった。

特筆すべきはニジンスキーの兄スタニスラフを演じたディラン・ティダルディ。彼はローザンヌ国際バレエコンクールのファイナルで、この「ニジンスキー」のスタニスラフのソロを踊ったのだった。その結果、ハンブルグ・バレエスクールのスカラシップが獲得できてそこで学んだ。本来、この役はダブルキャストだったのだが、ノイマイヤーが彼をたいへん気に入ったため、シングルキャストとなった。スタニスラフ役の初演ダンサーは、服部有吉さん。服部さんもすごかったが、ディランもすごい。必ずしもクラシックバレエの語彙に従わないような、極端な内脚、体を捻じ曲げたり、地面に転がったかと思えば驚くような高さで何回も跳躍する。まさに狂気の取り憑いた役であり、小柄で少年のような風貌が見せる痛ましさの中に、凄まじい苦悩と情念が伝わってくる大熱演だ。
黄金の奴隷と牧神という二大セクシーロールには、平野啓一さん(ロイヤル・バレエの平野亮一さんの兄)。日本人の男性とは思えないようなねっとりとした妖艶さを漂わせていたが、考えてみればニジンスキーの風貌も東洋的であったし、実際のニジンスキーが演じた牧神に似ていたのかもしれない。彼の写真などをよく研究してポーズや動き、表情を作っているのが分かった。この公演のプログラムやポスターも、平野さんの牧神をフィーチャーしたもので、鍛え上げられた素晴らしい肉体美を披露している。存在感の大きさ、両性具有的な色気があって、とても素敵だった。薔薇の精、アルルカンを踊った江部直哉さんは、少年のようなほっそりとした体つきだが、腕の使い方も繊細だし、なかなか降りてこないような高い跳躍、連続したドゥーブル・アッサンブレの着地も美しかった。
「春の祭典」では我を忘れたような凄まじいリードを見せるのが、ブロニスラヴァ・ニジンスカ役のジェナ・サヴェラ。激しく踊りながらも、普通ではありえないような方向に身体を曲げたりしている。そして彼女に率いられた群舞は、ショスタコーヴィッチの交響曲11番「1905年」の一斉射撃の音に合わせ軍服姿で舞台上を駆け回り圧倒的なハイパワーですべてを破壊するかのように踊り狂う。これこそが、ニジンスキーが感じた戦争の恐怖、軍靴と銃声なのであった。男性のコール・ド・バレエのレベルが充実しているこのバレエ団には、この作品は大変良く似合っていた。
バレエ団専属オーケストラの演奏は、ABTの首席指揮者であるオームスビー・ウィルキンスのバトンの下、「シェヘラザード」、ショスタコーヴィッチ「1905年」とオーケストラの技量が問われる作品で良い響きを聞かせてくれて、よりドラマティックに作品を盛り上げていった。(ハンブルグ・バレエの「ニジンスキー」来日公演は、演奏がテープだったのは返す返す残念なことだった)
「ニジンスキー」は観てしまったら表現とダンスの持つ力に打ちのめされてしまい、その作品の世界に囚われてしまうほどの魔力を感じさせる。バレエと美、自らの創造に取り憑かれてついに狂気に陥ってしまうニジンスキー。バレエという芸術の世界を生み出す錬金術師として、美に取り憑かれ、やがてヴェニスで死を迎えるディアギレフ。美とクリエーションのためにどんな犠牲でも厭わなかった二人の姿が、私たち観客を惹きつけてやまないのだろう。私がなぜ、バレエという芸術に惹かれてしまうのか、その答えの一つがこの作品の中にあるのだと感じ、心ふるえる体験だった。ノイマイヤーがこよなく愛するバレエ・リュスのスピリットが息づく、麻薬のような作品。
カナダでも、リピーターが続出し、評判が評判を呼んで最終週はソールドアウトとなったのだ。同じように打ちのめされ、取り憑かれたようになった人がたくさんいたのだと思う。またいつか、この作品を世界のどこかで観てみたい。

なお、別キャストでは、ルネッサンス絵画から抜け出たような金髪巻き毛の美青年スカイラー・キャンベル、そして入団3年目のコール・ド・バレエ所属のフランチェスコ・ガブリエル・フロラがニジンスキー役を演じた。キャンベルは観られなかったのだが、やはり美少年のフランチェスコ、まだ成熟度が足りず深みが足りないところがあるものの、技術的には素晴らしく、繊細な表現で大きな印象を与えた。このバレエ団は、魅力的な日本人男性ダンサー3人をはじめ、若手の男性ダンサーが充実している。スヴェトラーナ・ルンキナ、ギョーム・コテ、グレタ・ホジキンソン、エヴァン・マッキーとスターもそろってきたので、来日公演がいつか実現しないかな、と思う。
最近のコメント