7/20 ボリショイ・バレエ「オネーギン」 Bolshoi Ballet "Onegin"
ボリショイ・バレエの「オネーギン」初演を観るために、モスクワに行ってきました。初めてのロシアだったのですが、大変面白かったです。トレチャコフ美術館、プーシキン美術館、クレムリンの聖堂群、プーシキン博物館、赤の広場など、駆け足でしたが、モスクワの圧倒的に芸術的な環境に浸り、カルチャーショックはあれども楽しい旅でした。中でも、実際にプーシキンの肉筆で書かれた「エフゲニー・オネーギン」の原稿や、初版本、持ち物などを目にできたのは貴重な経験でした。
新装となったボリショイ劇場は、目も眩むばかりの豪華さでした。チケット代もかなり高くて、「オネーギン」で7000ルーブル、来シーズンの「白鳥の湖」に至っては12000ルーブル(1ルーブルは約3円)と、来日公演よりも高い値段。劇場内の飲み物の高さにも驚きました。それでも、様々な話題を呼んだ「オネーギン」はチケットの売れ行きも大変よく、観たかったヴィシニョーワとゴメスの回はソールドアウト。来シーズンでの再演も決定しています。20日のシュツットガルト・バレエから5人がゲスト出演した回と、21日のオブラスツォーワ、ホールバーグの回を観ました。
http://www.bolshoi.ru/en/performances/655/
Choreography: John Cranko
Sets and Costumes: Jürgen Rose
Choreographic supervision: Reid Anderson
Ballet Masters: Agneta Valcu, Victor Valcu
Lighting Designer: Steen Bjarke
Music Director: Pavel Sorokin
Rights owner: Dieter Graefe
Arrangement and Orchestration: Kurt-Heinz Stolze
Conductor Pavel Klinichev
20 July 2013
Onegin Evan McKie
Lensky, Onegin’s friend Friedemann Vogel
Madame Larina, a widow Anna Antropova
Tatiana, Larina’s daughter Alicia Amatriain
Olga, Larina’s daughter Anna Osadcenko
Their Nurse Irina Semirechenskaya
Prince Gremin, a friend of the Larina family Nikolay Godunov
この日は5人のメーンキャストがシュツットガルト・バレエのダンサーによって踊られた。18日にシュツットガルトの公演で同じキャストが出演していたこともあり、落ち着いた堂々たるパフォーマンスを見せてくれた。ロシアの観客に、これが本物の「オネーギン」だと見せることができたのではないだろうか。昼間にトレチャコフ美術館で、プーシキンの肖像画を見てきたので、感慨もひとしおであった。まさに、プーシキンの魂がロシアに帰ってきた、そんな気持ちである。「オネーギン」をいう作品を先達から伝えられ、大切に長年踊ってきたダンサーたちの想いが伝わる、素晴らしい公演だった。
ボリショイ劇場は、その名の通り、大きな劇場であり、舞台も非常に広い。そして床が傾斜している。そのため、オーケストラ席の後方だと足元がよく見えるのだけど、最前列だと残念ながら足先は切れてしまうので要注意。
広いボリショイの舞台で、グランド・バレエではない「オネーギン」がどのように見えるのか、少し不安だったのだけど、舞台が大きい分、ソリストたちも群舞もとてものびのびと踊っていたし、作品のスケールも大きく見えた。
アリシア・アマトリアンのタチヤーナは、とても内気で繊細な少女だ。眉を八の字にしてちょっと困ったような表情をしていて、オネーギンにときめいても、近づくことすらできないほどの恥じらいを見せている。鏡のシーンで、夢に現れたオネーギンを見ると、その歓びに心を震わせ、シャイな仮面を脱ぎ捨てて思いっきり奔放になるアリシア。彼女の驚くほど柔軟な肢体、柔らかく強靭な背中から伸びやかに、歌うように繰り広げられる踊り。リフトされたときのポーズも美しく、そしてときめきに瞳を輝かせた様子は、新しい世界を知る喜びにも満ちていた。
タチヤーナが、オネーギンへの愛の告白を拒否された上に妹オルガにちょっかいを出され、それがレンスキーとオネーギンの決闘、さらにレンスキーの死という悲劇を乗り越えて、タチヤーナは少女時代に別れを告げ、大人への成長を遂げる。3幕では蛹が蝶に変身したように、美しい貴婦人へ変貌するタチヤーナだが、その変化を説得力あるかたちで見せられるかどうかは、2幕の決闘シーンの後の演技が一つのポイントだと感じる。あまりに厳しく問い詰める表情をし過ぎてもいけない。その点で、少女らしさを残しながらも凛としていたアリシアは、自然にタチヤーナの成長ぶりを見せていた。
3幕では、グレーミンの妻となり艶やかな姿の中に幸福感を滲ませるタチヤーナの姿が記憶に刻まれた。グレーミンに寄せる愛情が深いだけに、オネーギンとの再会が彼女にどれほどの動揺を与えたのかが伝わってくる。ニコライ・ゴドゥノフの素晴らしいサポートと彼女を包み込む想いも特筆すべきだろう。ここからアリシアが見せた演技は、クランコ・ダンサーの真骨頂と言える。揺れ動きながらも、情熱の波に押し流されそうになり苦悶する様子を、震える肩、しなる背中、鮮烈なアラベスクと見事に踊りへと移し替えていった。タチヤーナの繊細さ、内気さの中からにじみ出てくる激烈な感情。それを押し殺しながら、自分自身の少女時代へと別れを告げるような決意を秘めてのラストシーン。多分、アリシアって本来のタチヤーナ像とは違った個性を持っていると思う。タチヤーナって、もっと大地に根ざしていて強いし、もっと現実的で賢そうな印象がある。でも、アリシアは、このタチヤーナのキャラクターを、自分の方へと巧みに引っ張って行って、彼女ならではの少女らしくデリケートな人物像を作り上げてしっかりとその物語を生きているので、心にその演技が響き、彼女とともに観客は涙を流すことができるのだ。背後からオネーギンに迫られて、思わず放心したように倒れこむ姿、そしてオネーギンが最後に去った後に、心を千々に乱しながら立ちすくむアリシアの演技は、大げささとは無縁なだけに、本物の悲しみの感情を伝えていた。
そしてエヴァンのオネーギン。彼のオネーギンは、役デビューからずっと観続けているが、観るたびに成長して役に深みを増して行っている。一挙一動が計算しつくされ、細やかなニュアンスを伝えて、エフゲニー・オネーギンという人物の内面を掘り下げて、一人のロマンティックなアンチヒーローの生き様を表現している。もはや、彼が当代一のオネーギン役であることに異論を挟む人はいないのではないだろうか。
プーシキンの原作「エフゲニー・オネーギン」は、ロシア人が学校で必ず学ぶ作品であり、ロシア人の魂そのものを体現した作品と言われる。クランコ振付の「オネーギン」がボリショイ・バレエで初演されるにあたっては、ロシア人から様々な意見があった。曰く、決闘シーンには女性は立ち会わないものである(原作ではオルガとタチヤーナは決闘には立ち会っていない)、身分の高い女性が自分のドレスを縫ったりしないし農民と一緒になって踊らない、その時代においては貴族の男性は髭は生やさないものである等等。確かに、クランコの作り上げた「オネーギン」は、本来の「エフゲニー・オネーギン」とは違う部分があるのは事実だろう。だが、エヴァンのオネーギンは、やはりロシア人女性が少女時代に「エフゲニー・オネーギン」を読んで恋をする、そんなエフゲニーそのものである。優雅な身のこなし、少々の傲慢さの裏に隠された空虚さ、それなのに人を惹きつけてしまう魔法のようなチャーミングさ。特に、ロシア・バレエ的なエレガントなポール・ド・ブラと雄弁かつ繊細な手の表現、高いアラベスクを見せる最初のソロに、彼の貴族性が現れている。
鏡のシーンで、タチヤーナの鏡像の首筋にキスをして斜に構えた笑いを浮かべるオネーギンであるが、パ・ド・ドゥでは甘く優しくタチヤーナに笑いかけ、そして新しい自由な世界へと彼女を導き、魔法のように彼女を操る。ここでのエヴァンのパートナーリングは見事としかいいようがない。アリシアの身体能力が素晴らしいのは言うまでもないけれども、この場面でこんなにもマジカルにパートナーを操ることができる人はいないのではないだろうか。ここでのエフゲニーは、タチヤーナの願望、夢が生み出した存在ではあるのだけど、きちんと実在のエフゲニーと同じ人物であることがわかる一貫性がある。
2幕でタチヤーナの思いを粉々に打ち砕く拒絶をした時には、エフゲニーは彼女のことが気に障ったからそうしてしまったのではない、彼女にもっと大人になって欲しいからそうしたということが伝わってきた。しかし宴にすっかり退屈した彼は、この田舎町に飽き飽きしただけでなく、自己嫌悪にも陥っているようだった。気を紛らわすように、オルガにちょっかいを出してレンスキーを怒らせるというゲームを仕掛けたエフゲニー。オルガの目から見ればもうたまらないほどの悪魔的な魅力を持つ大人の男性。。特にレンスキーが逆上するきっかけ、オルガの首筋を両手で触れる仕草のいたずらっぽさは、もうたまらない。そしてレンスキーを挑発する目つきも、とてもセクシーだレンスキーが、オルガに手を出されたことよりも、親友エフゲニーに意地悪をされたことに憤っている、そんな印象すら与える。もしかして、レンスキーは友情以上のものを彼に感じていたのではないかと思うほど。
そして3幕。グレーミン家に招かれた将校や貴族の令嬢たちを演じるボリショイ・バレエのコール・ドの容姿端麗なこと。その中でも、すらりとした立ち姿が今もなお美しいエヴァンのエフゲニー。(原作によれば、物語の終わりでもエフゲニーはまだ20代であり、白髪交じりの姿になっているのは間違っているとロシア人は言っているとのことであるが)片隅でうつむいている姿すら気品にあふれて絵になる。過去の女性たちの姿に翻弄されるようにさまよう姿もエレガントなゆえ、一層悲哀が募り、タチヤーナの穏やかな幸福に輝く姿とは対照的だ。
ラスト、手紙のパ・ド・ドゥでのエフゲニーは熱い。絶望的な愛をタチヤーナに訴え掛ける。私がシュツットガルトのダンサーが「オネーギン」を演じる時に凄いと思うのは、一つ一つの動きに感情がほとばしり、もはや演技には見えない、感情を自分のものとして生き、それが時には美しく見えなくなってしまうことも恐れないという覚悟の元で演じられていること。こう演じなければならない、という定型をなぞっているのではなく、自分自身の情熱、中から自分を突き動かす想いが溢れ出しているのだ。特のこのパ・ド・ドゥの後半、エフゲニーが膝立ちでタチヤーナの背後から迫り、倒れ込んだ彼女が後ろを向いてキスを交わすところから、横たわるタチヤーナが引っ張り上げられながら大きく跳躍するところまでの流れなのだが、このシーンはまさに奇跡というほどの情念のドラマが繰り広げられた。自分自身の中の炎と戦い心乱れるタチヤーナがほんのひと時、自分の方へと心を寄せたと確信したエフゲニー。彼がが一瞬だけ見せる微笑み、勝利を確信した彼の元に無情にも突きつけられる手紙と別れの言葉。今までいろいろな演者でこのシーンが演じられるのを観て、特にシュツットガルトのダンサーは誰もが素晴らしかった。だが、このペアはやはり鮮烈だ。今までくぐり抜けてきた各々の人生の苦しみや愛の積み重ねがあってこその演技だと確信させられた。
オルガ役のアンナ・オサチェンコも好演だった。オルガという少女の明るい闊達さ、軽はずみなところ、気まぐれさ、そのディテールが全て彼女の軽やかで明快な踊りに現れていた。フリーデマン・フォーゲルは、とても美しく華やかに踊り、また決闘前の自己憐憫にあふれたソロのナルシズム、存在感は強烈だったし、瞬間湯沸かし器のような逆上の仕方も鮮やかだったが、もうすこしオルガ役と向かい合って演じて欲しいと感じた。
ボリショイ・バレエのダンサーたちは、みなプロポーションが美しく、また身体能力も素晴らしいので、ダンスシーンはため息をつくほど華麗である。その上、皆ロシア人なので「オネーギン」らしさという点では言うことはない。1幕のコール・ドのダンサーたちがディアゴナルに駆け抜けるシーンの迫力は、ボリショイならではのものだし、3幕の舞踏会のシーンでの美男美女が着飾って勢ぞろいしたところには、思わずうっとりと見入ってしまう。2幕のタチヤーナの名前の日の宴でのコミカルなところや、老人たちの様子は、もう少し場数を踏んだほうが味わいが出てくることだろう。
いずれにしても、モスクワでも生活をしていたプーシキンの偉大な原作をもとにしたバレエが、ボリショイ・バレエにやってきた記念すべき公演は、大成功に終わった。中でも、クランコの魂を伝え、ドイツを経た「オネーギン」をモスクワに運んできたシュツットガルト・バレエのダンサーの高い芸術性は、大きな賞賛が得られるべきである。カーテンコールも熱狂的で、幕が閉じたあとも、観客が残って熱心なスタンディングオベーションを送ったことも記録されるべきだ。
シュツットガルト・バレエの次回の来日公演は、ぜひ「オネーギン」をお願いしたい。やはりカンパニーを代表する一作は、これに尽きる。
削除されてしまう可能性が高いけど、この公演の映像はYTにアップされている。(リンクについては、出演者二人の了解済み)
http://youtu.be/N6MVpHjccRc
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