ジャン=マルク・アドルフ氏(フランス「ムーヴマン」編集発行人) アンティスティチュ・フランセ 6月9日
6月15日、16日に彩の国さいたま芸術劇場にて上演される、マギー・マラン「Salvesーサルヴス」に関連しての講演会。大変学びの多いレクチャーであった。関連する映像も多く紹介された。
「70年代にフランスにコンテンポラリーダンスが出現した時には、アメリカからの影響が大きかった。マース・カニンガムや、フランスに住んだアメリカ人、例えばカロリン・カールソンや、初めてコンテンポラリー・ダンスの学校(アンジェの国立コンテンポラリー・ダンス・センター)を作ったアルウィン・ニコライ(Alwin Nikolais)など。この学校からは、フィリップ・ドゥクフレ(Philippe Decouflé)も育った。さらに、アフリカからの影響も少しあった(Eisa Wolliaston) さらに、80年代にAIDSで亡くなった矢野英征(1943-88)も影響を与えた」
ジャン=マルク・アドルフ氏がコンテンポラリー・ダンスの批評家となった経緯は大変興味深い。もともとジャーナリストとして働いていた彼は、仕事をしているうちに書きたいという気持ちが削がれてしまって、何を書きたいのかわからなくなった。そんな時に友人に誘われ、モンペリエで初めてダンスの公演を観た。ジャッキー・カタネルの「デュオ」という自閉症の少女の動作をダンスにしたものを観て動転し、それから彼の生活も仕事も変わってしまった。ダンスについて書き始めたのだった。ダンスの中に自分自身の何かを認める感覚は、80年代に多くの人が感じたのだった。
その頃、彼はモンペリエに住んでいたので、たくさんの舞台を観ることができた。モンペリエは、ドミニク・バグエのカンパニーの本拠地であり、またダンス・フェスティバルがあったのだ。81年のジャン=クロード・ガロッタの作品「ユリシーズ」では、歓喜に襲われた観客たちが、共同体となって感情を共有した。そんな最初の振付家がガロッタだった。
Cher Ulysse - choreography Gallotta
http://youtu.be/CFZlPtiyotU
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ガロッタは、グルノーブルに住んでいたのだが、劇場に迎えられていなかったので、自宅のガレージで作品を作っていた。彼はアートスクール出身で、ダンスの教育を受けていない。マース・カニンガムのアイディアを引用してきて組み合わせての創作を行っている。
そもそもフランスでコンテンポラリーダンスの起源となったのは、1968年の5月革命がきっかけだった。この革命は、政治的な抗議だけではなかった。両親が生きてきた生活、生き方から脱出したいという若者の欲求、とりわけ、恋愛関係の身体の自由に対するアクセスを彼らは求めていた。このような抗議活動は政治的には結実しなかったが、フランス社会を徐々に変えていったのだった。ガロッタはじめ、コンテンポラリー・ダンスの振付家は、バニョレの振付コンクールの第一回、68年に受賞していて、奇妙な一致を見せている。
同じ1968年5月革命の頃、パリ・オペラ座バレエにいたダンサー、モダンダンスの振付家、ダンスの批評家たちが、従来とは違ったダンス政策を求めるためにマニフェストを書いて、美的、そして政治的な種を蒔いたが、それは10年以上かかって花開いた。78年のバニョレ・コンクールがようやく新しい才能を発見する場になった。
<80年代>
そして81年にミッテラン大統領が就任するという政治的な事件が起きた。ジャック・ラングが文科省の大臣に就任した。彼の推進力を元に、新しい振付家を育てる機運が高まった。ドミニク・バグエがモンペリエに住み着いたのは1981年のこと。そして国立振付センター(CCN)がフランス全土に20箇所開設され、仕事のツールをアーティストに与えた。恒常的なスタジオ、予算が与えられ、ダンサーに給料が支払われるようになった。制度が整いクリエーションの環境がでいた。この動きは何者に求められなくなり、溢れ出るような空気、多大な喜びの感情jが生まれた。
83年からは経済の引き締め、ビジネスの方に力が注がれるようになったが、81年から83年のあいだには、イマジネーションが権力から力を奪取するのでは、という雰囲気があった。その頃、ダンスはユートピア的な進歩を続けた。それは、単に美的なものではなく、社会における身体の解放、社会的な身体をダンスが解放するというものであった。
ここで、ドミニク・バグエの「天使の飛躍(Le Saut de l'ange)」のコメンタリー付きの映像を紹介。この作品は、クリスチャン・ボルダンスキ(Christian Boltanski)という造形芸術家と創ったもので、シャルル・ピクがコメントを入れながら映した。
http://www.numeridanse.tv/fr/catalog?mediaRef=MEDIA090807155006079
フィクションにならないように工夫されながら、振り付けの三角ピラミッドなどのグラフィックな形、構造を抜粋を作るにあたって、全体を絵画になるように編集するようにとバグエが指示したものである。ここには、ダンスや演劇でななく、映画、甲斐が、造形芸術を元に作品を作っていくという意図がある。映画は、より多くの観客にアクセスする手段として、ここから「ビデオダンス」が生まれて流行していく。これらはテレビで上映され、ダンスを広く知らしめることになる。
Joëlle BouvierとRégis Obadiatによる「寝室」(La Chambre)
http://youtu.be/LcaUak0jc4g
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これは表現主義的な雰囲気があり、モノクロで撮影されて幻想的である。
また、ダニエル・ラリューはプールの中で撮影された「ウォータープルーフ」という作品を作った。レジーヌ・ショピノート(Regine Chopinot)は、"LE DEFILE"でジャン=ポール・ゴルティエと組んでファッションの世界をダンスにした。
http://youtu.be/0Ax4fOVyUM4
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フィリップ・ドゥクフレは「Codex」で、時間との戯れを、映画は舞台とは違ったふうに行うことができることを見せた。
http://youtu.be/Y1VlkBLA7vY
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マチルド・モニエ(Mathilde Monnier)と ジャン=フランソワ・デュロール(Jean-François Duroure)は「Extasis」(1985)で、80年代パノラマの最後を飾った。無頓着さ、歓び、若さ、ファンタジー。ミュージカルやキャバレーの雰囲気を持ち、クルト・ヴァイルの音楽を使っている。
http://youtu.be/0g8Ne9d78yk
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ちなみに、マチルド・モニエは「Pudique acide / Extasis」で11月に来日公演を行う予定。さいたま芸術劇場、あいちトリエンナーレ2013、ArtTheater dB 神戸で公演を行います。
http://www.institutfrancais.jp/tokyo/events-manager/mathilde-monnier/
<90年代>
90年代になると、反転が起こったかのようにフランス・ダンス界も80年代とは異なってきた。この時期に起こったパラダイム変化は、政治的なものであった。もはやユートピアの時代ではない。社会全体を変革することはできないという空気が出てきた。
また、80年代終わりから90年代には、AIDSが出現して人間を揺り動かした。93年にドミニク・バグエは、AIDSによって亡くなった。ダンスの共同体そのものが、身体の自由という可能性から逆に攻撃されることになった。若いアーティストたちは、意識的に、今までと同じものを作ることはできない、80年代と同じものを作ることはできないと考えるようになった。
ジャン=マルク・アドルフ氏は、94年よりパリのバスティーユ劇場で働き、7年間プログラミング・ディレクラーとして若いアーティストを発掘して育てた。ジェローム・ベル(Jérôme Bel)が友人として電話してきて作品を見て欲しいというので、彼の初振付作品「作者に与えられた名前」を見たが、これはダンスではなかった。この作品をディジョンのフェスティバルで上演したところ、最初にいた20人の観客で最後まで残っていたのは、二人、アドルフ氏と劇場のディレクターだけだった。バスティーユ劇場でも、15人しか観客が集まらなかった。彼の次の作品「ジェローム・ベル」は、5人のダンサーが全裸で、舞台装置はなく電球1個の照明、歌手が舞台上で「春の祭典」をハミングするのが音楽という作品で、「未確認物体」「実験作すぎる」とディレクターに言われ、「5年後なら上演する」と言われたが、「上演しないなら辞める」ということで上演したら、3回の公演は満員となった。
ル・モンド紙のジャーナリストは、ダンスの動きのないダンス作品を「ノン・ダンス」というコンセプトを作って呼んだ。
80年代と違って、スペクタクル性、演劇性を排して、身体そのものを動きの手段として発見しようという方向性へと移行していった。裸の身体は、センセーションを狙ったものではなく、あるがままの身体を露呈したもの、として再発見された。また、アーティストの何人かは、自分自身が知らなかった時代にインスピレーションを求めて、ジャドソン・チャーチ派やトリシャ・ブラウンなど、50,60年代のアーティストやムーブメントを探っていった。コンテンポラリー・アートへ近づきたいと、造形美術家との共同作業をしたアーティストもいた。日本における”具体”運動に対しても、90年代のアーティストは興味を持っていた。
アラン・ビュファール(Alain Buffard)は、「Good Boy」というソロで、ヌードを使った直接的なかたちでAIDSを描いた。
http://youtu.be/qfCKXZkg214
また、彼は「INtime / EXtime MORE et encore」でも裸の身体を使っている。
http://youtu.be/NYTJpHeVVeQ
ボリス・シャルマッツ(Boris Charmatz)は、MAGMAという作品で、何が共同体、集団を作っているのかを提起するために、ヌードを使った。無音で同じシークエンスが10分間続く作品である。
https://vimeo.com/24181813
今でも、「ダンス」という形が残っているダンスはある。たとえば、アンジェラン・プレルジョカージュの作品など。そして一方で、コンテンポラリー・ダンスとヒップホップが交差するという形式も出てきた。サーカスと交差したNouveau Cirque(ヌーヴォー・シルク)も出現した。
ジャン=マルク・アドルフ氏は、マース・カニンガムやピナ・バウシュのように長期的に続いていないと偉大なアーティストとは言えないと考えている。しかも、長期的な中に、革新的なものを入れていかないとならないと。自分自身のスタイルをカリカチュアしているようではいけない。アーティストは一人だけで仕事をしているわけではなく、倫理的な責任、社会的な責任を負っている。
マギー・マランは、まさにその点では偉大なアーティストである。30年前に作品を発表し始めたところから、作品から作品へと新しくなっていった。彼女の作品には多様な時期があり、演劇な作品から絵画的な作品まで変容している。特に「デュルプス」から「サルヴス」にかけてはそうだ。また、政治的に参加していることも重要である。マランの作品は、美的な質、倫理的な質が高い。彼女はクラシックバレエを経てきている人なので、「サンドリヨン」では、リヨン・オペラ座のダンサーが持っているクラシックバレエの技術を使って、振り付けており、幅が広い。脚を上げなくても、動きが美しく、動きがそれ自体で語ることができる。
リヨン・オペラ座バレエ「サンドリヨン」(シンデレラ)
http://youtu.be/jc6mD40ZUwk
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カンパニーは、ダンスのレパートリーを繰り返すだけでなく、新作を作らないといけないし、既にあるレパートリーを取り返さなければならない。パリ・オペラ座バレエも、美術館であっても、絶えず新しい作品を入れて、見せ方を変えていかなければならない。
アドルフ氏は、サルコジ政権のあいだはフランス国外で、フランスを公に代表することは拒絶してきた。サルコジが「国民アイデンティティ賞」なるものを創設したことに抗議してのこと。フランスの素晴らしさは、外国人に対するホスピタリティがあることにあると考えているからだ。マース・カニンガムに制作資金を提供したことも。ピナ・バウシュが「税金を使っているなら出て行け」という市民の声に屈せずにヴッタパールにとどまることができたのも、パリ市からの援助があったからである。山海塾、天児牛大も、テアトル・ラ・ヴィルが資金を提供したのでフランスで活動することができているし、勅使川原三郎も、バニョレ振付コンクールで賞を取り、アドルフ氏の劇場で紹介したことによって、日本で知られるようになった。パリで彼の作品を観た朝日新聞の記者が取り上げて、FAXが紙切れになるほど問い合わせが殺到したのだった。カルロッタ池田もパリで活躍している。最近では、アフリカ出身のアーティストも活躍している。どの国から来ようと、才能のあるアーティストに場を与えるというホスピタリティが、フランスの良さである。日本にも、このような仕組みがあってしかるべきである。パリだけでなく、ボルドー、トゥルーズ、ストラスブールでも優れたダンスを観ることができるのは素晴らしい。
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