7/11, 15 シュツットガルト・バレエ「オネーギン」 Stuttgart Ballet "Onegin"
シュツットガルト・バレエの2011/12シーズンの終わりを飾る「オネーギン」の公演を観に、シュツットガルトまで行ってきた。7月には恒例の{バレエ・イン・ザ・パーク」というシュロスガルデン公園で大きなスクリーンを設営しての生中継の公演があって一大イベントとなる。去年に続き、今年もあいにくの雨だったけど、多くの観客が低い気温と雨の中集まった。後で別エントリで書くけど、今回はソリチュード宮殿の近くにあるジョン・クランコのお墓に墓参りをして、素晴らしい公演になることを祈ってきた。
オネーギン役はエヴァン・マッキー。パリ・オペラ座でのゲスト出演の成功を受けての凱旋公演。そしてタチヤーナ役は、エヴァンのオネーギンデビューの時のパートナーであるミリアム・サイモンではなく、アリシア・アマトリアン。なお、14日の公演は、当初予定されていたフィリップ・バランキエヴィチに代わって、オネーギン役デビューのアレクサンダー・ジョーンズが登場し、こちらも素晴らしい演技を見せてくれた。
ONEGIN Evan McKie
LENSKI, Onegin's Freund Friedemann Vogel
MADAME LARINA, eine Witwe Melinda Witham
TATJANA Alicia Amatriain
OLGA Hyo-Jung Kang
deren AMME Ludmilla Bogart
FURST GREMIN, ein Freund der Famille Larina Damiano Pettenella
数年後にクランコ財団の著作権が切れてしまう「オネーギン」は世界中のバレエ団で幅広く上演されている作品であり、去年はエヴァンが主演した「オネーギン」をパリ・オペラ座バレエと韓国のユニバーサル・バレエで観た。しかしこの作品が生まれたシュツットガルト・バレエで「オネーギン」を観るのは特別の感慨がある。同じユルゲン・ローゼの装置や衣装でも微妙にデザインが違うし、コール・ドのひとりひとりに至るまでクランコの世界観が染み透っている。
エヴァンのオネーギンは、彼が初めてこの役を踊った2年半前から、さらに磨き抜かれて来ている。プーシキンの「エフゲニー・オネーギン」はロシアの国民的文学で、ロシア人の女性は学校でプーシキンを学ぶと、一生ずっとエフゲニーに恋をする人生を送るという。そのプーシキンの本からまるでそのまま出てきたようなオネーギン。洗練されていて優雅で、高すぎるプライドによって世間と折り合いがつけられなくて、人生に倦んでいる男。その倦怠感と誇り高さがあますところなく表現されている最初のソロ。Y字型に高く突き刺さるアラベスクと、顔を包むようなエレガントな腕の動き、ゆっくりとしたぶれのないピルエット。エヴァンの踊りのスタイルには、ロシアの香りが漂う。タチヤーナには一瞥もくれず、自分だけの世界で踊るオネーギン。タチヤーナどころか、彼は他人には興味などないのだ。エヴァンのオネーギンは、一応表面は取り繕って感じの良い人を装うとしているし、虚無的ではないのだが、プライドの高さと世間体への顔向けの絶妙なバランスを取ろうとして圧倒的に突出した存在感を醸し出し、その結果タチヤーナは恋してしまうのだ。タチヤーナの読んでいる本を手に取り、少し小馬鹿にした表情をして返す彼の姿すら、タチヤーナにとっては憧憬を向ける対象となってしまう。繊細で、イノセントで少し甘さがあるアリシアのタチヤーナは愛らしく、震えるようなパ・ド・ブレにその恋心の高鳴りが響いていた。
そんなオネーギンも、タチヤーナの夢に出て来るときには、まさに夢の恋人そのものの姿をしている。鏡の向こうから現れる黒い影が彼女の首筋にキスをするところから、心は高鳴るばかり。しなやかなアリシアの身体は驚くべき曲線を描いて舞い上がる。十分なリハーサルができたようで、スムーズで流れるようなパートナーシップ。エヴァンは甘く優しい表情の中に少しだけセクシーな微笑みを浮かべて、自由自在にアリシアを操る。魔法使いのように。音楽性豊かにふわっとどこまでも高く舞うエヴァンのジュッテ・アントルラッセ。美しく脚が開いて足音のしないジュッテ。その魔術的な舞に幻惑されてしまう。この鏡のパ・ド・ドゥの秀逸なところは、オネーギンが立ったままのタチヤーナを高々とリフトして、彼女の目を開かせること。世界にはこんなに素晴らしいものがたくさん待っているんだよ、と彼女に見せているかのようだ。オネーギンとの出会いによって、もともと利発だったタチヤーナは、より多くの知性を獲得して魅力的な女性へと育っていく、そのことを暗示するようなリフト。オネーギンの腕の中で自由に、奔放に舞うタチヤーナ。うっとりとした余韻を噛み締めるタチヤーナを残して、オネーギンは鏡の中へと去っていく。腕をドラマティックに振り下ろして去っていく姿の、しびれるほどのスタイリッシュさ。この箇所ひとつをとっても、2年前のデビューからのエヴァンの進化が感じ取られる。高揚感に輝くアリシアの表情も幸せに満ちていて、思わずタチヤーナと我が身を重ねてしまう。
2幕のタチヤーナの名前の日の祝いの宴では、ふさぎの虫に取り憑かれたオネーギン。宴の喧騒をよそに、憂鬱そうにカード遊びをする姿も麗しい。エヴァンは大きな手と長い指が実に優雅なのだ。ついに泣き出してしまうタチヤーナに、オネーギンは手紙を突き返す。決して彼女に対していじわるをしているわけではなく、丁寧に返そうとしているのだが、受け取らない様子を見て軽く苛立ち、びりびりに破いてしまう。それも、仕方ないんだよ、というそぶりで。心が砕け散ったタチヤーナをよそに、無邪気で軽薄な妹オリガにちょっかいを出すオネーギン。悪魔のような魅惑的な微笑みを浮かべたオネーギンに相手にされて舞い上がってしまうオリガ、そして憤然とするレンスキー。レンスキーは怒りのあまりオネーギンに決闘を申し込む。レンスキー役のフリーデマン・フォーゲルは、踊りそのものは柔らかく美しいのだが、パートナーの存在などはまるで忘れていて、オリガとのラブラブな雰囲気もなくひたすらナルシスティック。月光のソロでも、死すべき自分の運命を嘆き悲しむのみ。決闘を申し込む時のレンスキーの怒りの表現はやけにリアリティがあったが、レンスキーの死は自業自得で、この決闘で真に傷ついたのはオネーギンの方と感じてしまった。決闘の場にやって来るときの、死神のような不吉な佇まいから、怒りを炸裂させての高速連続ピルエットまで、自らの禍を招いたとはいえ、オネーギンの方こそが敗者であることが感じられて胸が痛む。その極めつけが、決闘でレンスキーを倒したあと、タチヤーナの問い詰めるような表情に見つめられ、オネーギンはまるでレンスキーの血で汚れているかのように我が手を見つめ、そして愕然として顔を手で覆う。その憔悴ぶりには、涙せずにはいられない。
(この公演は、「バレエ・イン・ザ・パーク」といって公園で無料の生中継が行われた。写真は、昼間のジョン・クランコ・スクール学校公演の中継時のもの)
3幕の舞踏会で整列した将校たちと貴婦人たちの姿のあまりのスタイリッシュさに、客席から拍手が湧き出る。この独特の厳かな雰囲気はシュツットガルト・バレエならではの光景だ。華やかな洗練という点では、パリ・オペラ座バレエで上演したこのシーンの方が上なのだが、この作品を生み出し、長年にわたって上演してきたバレエ団ならではの格式が漂っている。旅から戻ってきたオネーギンは、相変わらずすらりとしていてエレガントで美しい紳士なのだが、虚しい漂泊の日々が彼に苦悩と年齢以上の老いを刻みつけているのがわかる。過去を通り過ぎて行った女性たちの幻影に惑わされるオネーギンは、ロマンティックな狂気の囚人のようだ。グレーミンの邸宅に招かれても、顔を横に向けて憂愁に沈み、心ここにあらずという佇まいだが、その横顔もメランコリックで翳りを帯びて絵画の中にいるかのようんだ。ほっそりと長く優雅な首に気品あふれる姿態、見違えるようなあでやかな貴婦人となったタチヤーナを見て驚く彼は、背中を客席に向けながらも溢れんばかりの想いをその背中を通じて訴えかける。
オネーギンからの手紙を手にしたタチヤーナは揺れ動いている。14日にタチヤーナを演じたマリア・アイシュヴァルトはいかにも賢婦人といった風情で、オネーギンの求愛に心動かされることはあっても、最初から最後まで彼を拒絶する強い決意を秘めていた。アリシアのタチヤーナは、最後まで迷っている。年月を経てそれまでの虚飾と仮面を脱ぎ捨てて心を裸にし、全てを投げ出してタチヤーナの足元へ跪いて愛を迫るオネーギン。あの頃の彼とは違うその姿に、タチヤーナの心は蝋燭の炎のように揺らぐ。アリシアのタチヤーナは、外見は成熟した貴婦人のようでも、少女時代の精神を持ち続けているようにデリケートで、オネーギンの人生を賭けた想いに心が次第に溶けていくのが見える。エヴァンのオネーギンはここではとても激しい。エレガンスを崩さずに、激情を表現するのではなくその感情を自分自身のものとして生きてオネーギンそのものとして舞台の上で存在している、それができることがオネーギン役を演じるダンサーに必要な資質だが、エヴァンは見事に応えている。
12月のパリ・オペラ座で彼がオーレリー・デュポンと演じられたドラマは、二人とも自分自身を見失うほどの激しい感情の渦に身を任せ、舞台を焼け尽くすかのようにあまりにも鮮やかなパフォーマンスに打ちのめされたものだった。最後の手紙のパ・ド・ドゥでのアリシアのタチヤーナは細やかで繊細な情感あふれる見事なタチヤーナであったのだが、鮮烈さを刻み付けるほどの激しい情熱は見せなかった。しかしながら、彼女の柔軟な肢体から繰り広げられる美しい軌跡の跳躍に込められた万感の想いと、迷いに迷った上でオネーギンに人生から永遠に立ち去ることを命じる時の苦悶、彼が走り去った後おろおろと彷徨い、控えめな表情ながらさめざめと涙し悲しみをこらえる演技は、ずっしりと心に響くものであった。
9月末の東京バレエ団の「オネーギン」も待ちきれない。
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