2012年6月6日(水)18:30開演 / 会場:東京文化会館
シュツットガルト・バレエ団2012年日本公演
http://www.nbs.or.jp/stages/1206_stuttgart/swanlake.html
「白鳥の湖」
ジョン・クランコによる4幕のバレエ
音楽:ピョートル・I.チャイコフスキー
振付・演出:ジョン・クランコ(伝統的演出に基づく)
装置・衣裳:ユルゲン・ローゼ
初演:1963年11月14日、シュツットガルト・バレエ団
クランコ版の「白鳥の湖」は去年の12月にシュツットガルトで2回観ている。(アンナ・オサチェンコ&フィリップ・バランキエヴィッチ、エリサ・バデネス&マライン・ラドマーカー)その時には、音楽の変則的な順番にびっくりしたものだった。
この版の大きな特徴はまず一幕、パ・ド・トロワや道化など、物語とはあまり関係のない”踊りのための踊り”のシーンがカットされており、代わりに王子と町娘たちによるパ・ド・シスが踊られる。王子の友人ベンノも登場し、青春時代を謳歌する王子の姿が描かれている。王子の登場シーンが、占い師の老婆に扮していた王子が早変わりで王子の姿を現し、通常道化が踊る曲で無邪気にソロを踊るところであることも、まだまだモラトリアム期にあるロマンティストの青年の日々を象徴させている。だが、花嫁候補たちの肖像画が運び込まれ、威厳があり冷たい女王が王子をたしなめると場の空気は一変し、王子は憂愁に沈む。青年期の終わりを告げられたかのように。姿を消した王子を追ってランプを持った人々が彼を探し回る演出は、劇的な効果があって素敵だった。
2幕の演出は、一般的な「白鳥の湖」と基本的には振り付けも構成も変わらないが、オデットのメイクが異様なまでの白塗りで、その姿は白鳥というよりはほとんど亡霊のようであり、感情表現も薄い。自分の身の上を説明するマイムもない。白鳥の群れをベンノと友人たちが弓で撃とうとして、王子が止めるシーンがあるのだが、つまりはベンノたちには彼女たちは人間の娘たちではなく白鳥にしか見えていないということであり、王子にだけ、オデットはオデットとして見えているのだ。オデット自体が、王子の妄想の産物という解釈をすると、オデットの抑えた感情表現も理解できる。ベンノがぐるぐる回る白鳥たちの群れに囲まれるシーンは、まるで「ジゼル」でウィリたちにとり囲まれたヒラリオンのようで、ますます、白鳥=亡霊もしくは物の怪説を想起させるのである。
3幕では、オディールはロットバルトのマントの中から登場し、正体を明らかにした後も走り去るのではなくロットバルトのマントの中へと魔法のように忽然と消える。白鳥の影は登場しない。したがって、ここでも実はオディールもロットバルトの妖術が生み出した幻想なのではないかと想像できてしまう。そもそも、あんな異様な姿をしたロットバルト(見知らぬ紳士)が平気で宮廷の中に足を踏み入れることができて、平然と女王様の横に座っても誰も何も言わないのが不自然なのだ。キャラクターダンスの中心は花嫁候補が踊るという趣向だが、チャルダッシュはない。
クランコ版「白鳥の湖」の最大の特徴である4幕では、チャイコフスキーの『ハムレット』上演のための劇付随音楽(作品67b)(「弦楽のためのエレジー」と同一曲)を使っての美しいパ・ド・ドゥが挿入されている。ここで初めてオデットの人間らしい感情が見えてきて、王子の腕を胸のところへと持っていく。背後から両手を広げた王子に寄り添うオデット。ようやく心が通じ合い、愛し合う二人。だが誓いを破ってしまった王子は許されず、二人は引き裂かれる運命に。オデットと王子の自分の体の一部を切り裂かれるような苦しみと悲しみが、このパ・ド・ドゥでは繊細に描かれている。文字通り引き剥がされるかのようにロットバルトに連れ去られたオデットは白鳥の姿に変えられ、そして王子は波にさらわれて溺死。
これは、モラトリアム期の若者である王子が王室の権威にたてつき、自身で選んだ女性と結ばれようとしたが、悪魔という巨悪と戦おうとするも無残に敗れ去り死を迎えるという物語であるとも解釈することが可能である。何しろ、王子が選んだオデットは実は姫などではなく、ロットバルトが作り上げた幻想に過ぎなかったわけなのだから。いずれにしても、この「白鳥の湖」は徹頭徹尾王子の物語として描かれている作品であり、男性ダンサーにとっては非常に演じがいのある作品であるといえる。
さて、6月6日の公演は、当初予定されていたマリア・アイシュヴァルトが怪我を悪化されて降板、それに伴いパートナーのマライン・ラドマーカーも交代して、主演はアンナ・オサチェンコとエヴァン・マッキーとなった。去年12月に観たマライン・ラドマーカーの王子が素晴らしかったので今回も楽しみにしていたが残念。だが代役のエヴァン・マッキーの踊りが観られるのは嬉しかった。
長身で手脚が長く理想的なプロポーションの持ち主であるエヴァンは、指先からつま先の隅々まで神経の行き届いた、これぞダンスール・ノーブルのお手本というべき端正な踊り。中でもポール・ド・ブラの柔らかいアカデミックさ、きれいに伸びたつま先、大柄なのに音のしない正確で美しい着地は特筆ものである。アラベスクの時の背中から足先までのカーブしたラインの素晴らしさには思わずため息が出る。1幕の登場シーンでの王子は、占い師の扮装を脱ぎ捨てて、元気いっぱいに跳回る軽やかさが必要なのだが、落ち着いていて優雅なイメージの強いエヴァンも、ここでは明るく屈託なく飛び跳ねつつも、王家の人間にふさわしいエレガンスを保ち、伸びやかに踊っていた。
だが彼の本領発揮は、王子が女王に結婚相手を選ばなくてはならないと強いられた後の、憂愁に沈む貴公子の姿となってからである。エヴァンは、ノーブルで美しいだけのダンサーではなく、ドラマティックな表現力に定評があり、一挙一動に物語を込めることができる人なのだ。王子は女王の言いつけ通りの許嫁をもらうのではなく、自分が本当に愛せる女性を求めており、そして出会ってしまったのが、幻想と現実の狭間に存在しているかのようなオデットだったのだ。その、一見不可解な物語をいかに信じさせられるかが、王子役のダンサーの演技力を発揮するポイントであり、そこをエヴァンは見事に演じきっていた。
2幕の湖畔のシーンでは、感情を表面に出さず人間ではないようなオデットを相手に踊るという難しそうな役どころだが、エヴァンは、幻影のようなオデットに対しても包み込むようなサポートで、オデットへの愛を歌い上げていた。アンナのオデットは叙情的で、甲の高い美しい脚で表現されるゆっくりとして丁寧なアダージオは詩的でなめらかだったが、これもエヴァンのサポートがあってこそ。エヴァンは常にパートナーとのコミュニケーションを欠かさず、パートナーと共に物語を紡いでいくことができるパートナーリングの達人だ。だからこそ、魂のない人形であるかのようなオデットとのアダージオでも、ドラマティックで心を震わすようなパ・ド・ドゥとして観客の目に印象づけることができる。
3幕では、花嫁候補である各国の姫たちが玉座の間に現れたあと、オディールと見知らぬ騎士(ロットバルト)が現れ、そして姫たちがディヴェルティスマンを踊る。姫たちの衣装は大変豪華なものだが、それぞれの振り付けは実際のところあまり魅力的ではなく、王子もまったく彼女たちに関心を持てずに、オデット/オディールのことばかりを想っている。ここでのオディールは、特別邪悪な感じではなく、アンナは生き生きと魅力的に踊っていたが、オディールのヴァリエーションは通常は王子のヴァリエーションに使う曲を使用しているのに違和感があり、フィニッシュのポーズはあまり美しい振付ではない。3幕の舞台は2階建ての豪奢にて華麗な装置で飾られているが、舞台が狭くなってしまって、せっかくのエヴァンのヴァリエーションも極めて踊りにくそうであった。そんな中でも、彼のクリーンな着地と綺麗に引き上がって緩やかに減速するピルエット、伸びやかなつま先の美しさには惚れぼれとする。アンナのグランフェッテは音に合っていなくて残念ながら途中で踵がついてしまって止まってしまったが、すかさずエヴァンがピルエット・ア・ラ・スゴンドを入れてフォローして、スムーズに場をつなぐことができた。オディールは魔法のようにロットバルトのマントの中へと消えていくので、王子は一体何が起きたのか、理解することができずに戸惑うばかり。
クランコ版のドラマティックさが遺憾無く表現されている4幕で、アンナもエヴァンもこの「白鳥の湖」の真髄を伝えることができた。「ハムレット」の陰鬱だがゆっくりとしたメロディに乗せて、初めてオデットと王子の心が真に通じ合うパ・ド・ドゥの悲しさに思わず胸が詰まる。王子の裏切りが明らかになって、ようやくオデットが王子への愛に目覚めるのだから皮肉なものである。心から求め合い、お互いの心の傷を癒しあうものの、決して結ばれない運命を嘆く。愛する人から引き裂かれる悲しみと恐怖に震えるオデットの姿が痛ましく、そして彼女を優しく抱きしめる王子も苦悩に満ちている。倒れているオデットと王子の上を、ロットバルトのマントが通ると、二人の力が悪魔に吸い取られているかのように思えておぞましい。ついにオデットは引き剥がされて白鳥の姿に変えられ、王子は波間を漂いながら溺れ死ぬ。1階前方で観ていたので、波を模した布の舞台装置のために王子が溺れていく姿が見えなかったのが残念だったが、ほの暗い照明も美しく、この版の圧倒的な悲劇性を際立たせていた。
脇のキャストへと目を転じると、1幕の町娘たちの中心、そして2羽の白鳥、3幕のスペインと大活躍をしていたのがプリンシパルのミリアム・サイモン。彼女はエヴァンがオネーギン役デビューした時のタチヤーナ役で、プリンシパルなのにプログラムにプロフィールが載っていないのが残念。ラインが美しく闊達なバレリーナで、白鳥独特のポーズもうっとりするほどで、舞台全体のクオリティ向上に貢献していた。もう一人の2羽の白鳥は、同じくプリンシパルのヒョ=ジュン・カン。彼女はユニバーサル・バレエでの「オネーギン」でやはりエヴァンの共演していた若手で「じゃじゃ馬ならし」ではビアンカ役を好演。彼女の白鳥のラインもとても伸びやかかつたおやかで魅力的だった。いつかミリアムやヒョ=ジュンのオデットを観てみたいものだ。ゲネプロで2羽の白鳥を踊った森田愛海さんも、大きな踊りで強い存在感があった。
ベンノ役のアレクサンダー・ジョーンズは爽やかで明るいキャラクターの持ち主で、王子の青春時代の象徴ともいえる役。軸のしっかりとしてぶれないピルエットが決まっていた。ロシアの踊りにもプリンシパル、エリザベス・メイソンを投入していたが、この振付に主役級を使うのは少々もったいなかったと思える。クランコ版「白鳥の湖」は、全体のコンセプトは非常に興味深く、ドラマティックなのだが、この3幕のディヴェルティスマンの振付が、特にスペインとロシアにおいて魅力に乏しいのが残念なところであった。その中では楽しめたナポリ、男性ソリストのブレント・パロリンはコントロールの効いたピルエットで生き生きと踊っていた(彼は、「じゃじゃ馬ならし」ではグレミオ役を怪演)。
一つ一つのヴァリエーションの振付にとらわれず、ひとつの物語として捉えた場合には、クランコ版「白鳥の湖」はチャイコフスキーが意図した圧倒的な悲劇性と物語性を体現し、王子の心理面に着目してその愛と夢とその挫折を描いた面白い作品になっていたと思う。もう少しクランコが長生きしていたら、どのようにこの作品は改訂されていたのだろうか。
◆第1幕 王子の城近◆
ジークフリート王子:エヴァン・マッキー
ウォルフガング(家庭教師):オズカン・アイク
家政婦:リュドミラ・ボガート
ベンノ(王子の友人):アレクサンダー・ジョーンズ
従者たち:
ロマン・ノヴィツキー、ブレント・パロリン、
デヴィッド・ムーア、ローランド・ハヴリカ
町娘たち:
ミリアム・サイモン、アンジェリーナ・ズッカリーニ、
エレーナ・ブシュエヴァ、ダニエラ・ランゼッティ、ミリアム・カセロヴァ
王妃(摂政):メリンダ・ウィザム
王家の使用人、貴族たち:コール・ド・バレエ
◆第2幕 湖畔◆
ジークフリート王子、ベンノ
ロットバルト(邪悪な魔術師):ダミアーノ・ペッテネッラ
オデット(魔法をかけられた王女):アンナ・オサチェンコ
二羽の白鳥:ヒョ=ジュン・カン、ミリアム・サイモン
小さな白鳥:
エリサ・バデネス、カタリーナ・コジェルスカ、
ジュリー・マルケット、アンジェリーナ・ズッカリーニ
白鳥たち:コール・ド・バレエ
◆第3幕 玉座の間◆
ジークフリート王子、王妃
見知らぬ騎士:ダミアーノ・ペッテネッラ
オディール(その娘という姫君):アンナ・オサチェンコ
スペインの姫君とそのお付き:
ミリアム・サイモン
ペトロス・テティエリアン、ロマン・ノヴィツキー、
デヴィッド・ムーア、マッテオ・クロッカード=ヴィラ
ポーランドの姫君とそのお付き:
オイハネ・ヘレーロ、ローランド・ハヴリカ
ロシアの姫君:エリザベス・メイソン
ナポリの姫君とそのお付き:
アンジェリーナ・ズッカリーニ、ブレント・パロリン
貴族たち:コール・ド・バレエ
指揮:ジェームズ・タグル
演奏:東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団
協力:東京バレエ団、東京バレエ学校
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