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« 「バレエ・アステラス2012」出演者決定 | トップページ | NBS「バレエの祭典」ラインアップ発表 Lineup of NBS 2012-14 »

2012/05/13

Theatre in My Blood - A Biography of John Cranko, John Percival (ジョン・クランコの伝記)

ダンス批評家のジョン・パーシヴァル氏による、偉大な振付家でシュツットガルト・バレエの現在の形を作り上げたジョン・クランコの伝記である。

ジョン・パーシヴァル氏は85歳の高齢ながら存命であるのだが、この本にも登場するドイツのダンス批評家で同い年のホルスト・コーグラー(Horst Koegler)氏が昨日亡くなったとのことで、ご冥福をお祈りしたい。Horst Koegler氏は、ドイツのダンス評論を英語でも発信してきた偉大な批評家であった。彼の英語での批評はこちらで読むことができる。亡くなる一か月前まで精力的に活動されてきたとは驚きである。クランコとは同じ年の生まれであった。
http://www.danceviewtimes.com/horst_koegler/

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ジョン・クランコは、1927年に南アフリカで、ユダヤ人の血を引くオランダ系の弁護士の父と、これが2度目の結婚となる母の元に生まれた。少年時代に両親が離婚し、結局は父親に引き取られることになる。子供の頃から編み物が好きだったクランコは、やがて人形芝居づくりに熱中し、それがきっかけでバレエに興味をもち学び始める。もともとダンサーになるというよりは振付家になりたいと思っていた彼は、南アフリカでダンサーとして、そして振付家として活動した後、19歳の時、1946年にロンドンへと旅立ち、サドラーズ・ウェルズ・オペラ・バレエ(現バーミンガム・ロイヤル・バレエ)に入団する。入団の年から小品を振りつけるようになり、早くも1950年にはNYCBに振付作品を提供し、24歳でサドラーズ・ウェルズ・オペラ・バレエの常任振付家に就任。51年には現在もバーミンガム・ロイヤル・バレエなどで上演されている「パイナップル・ポール」を、そして57年には初の全幕作品「パゴダの王子」を振り付けて早熟ぶりを発揮する。現在シュツットガルト・バレエで上演中の「貴婦人と道化師」は、54年、まだ27歳の時の作品である。さらに、ウェストエンドで大ヒットを記録したレビューショー「Cranks」の振り付けも手がけるほか、オペラやミュージカルの振付も行う。今も世界中で広く上演されている「ロミオとジュリエット」の原型は、58年にミラノ・スカラ座で初演された。57年に同性愛の取り締まりに遭って逮捕されるが、「パゴダの王子」の上演がきっかけで61年1月にシュツットガルト・バレエから芸術監督への就任をオファーされて、ドイツへと移る。

1973年に機上で不慮の死を遂げるまでの12年間に、クランコは”シュツットガルトの奇跡”をもたらす。オペラ劇場のバレエ部門に過ぎなかったバレエ団を、世界でも有数のカンパニーへと進化させ、当時まだ22歳でコール・ドのダンサーだったマリシア・ハイデを発掘し、リチャード・クラガン、ビルギット・カイル、エゴン・マドセンなどともに看板スターに育て上げる。メトロポリタン・オペラハウスでの全米公演も2回実現させるなどの成功を収めた。そして、「オネーギン」「じゃじゃ馬ならし」など物語バレエの傑作を作り上げる。だが後半生、「オネーギン」や「じゃじゃ馬ならし」の音楽の編曲を行なったクルト=ハインツ・シュトルツェなど盟友たちが自ら命を絶つといった人生上の困難にあたり、彼はアルコール依存と欝病に苦しむ。そして、2度目のアメリカ公演から帰国する機上で、軽い睡眠薬を服用したところ、吐瀉物が喉に詰まって窒息し、45年の生涯を閉じる。といったことが、よく知られているクランコの生涯の概略である。

この伝記を読んで印象的だったこと。まず、45年という短い生涯の間に、クランコは非常に多くの作品を振りつけたこと。巻末に収録されている振付作品一覧を見ても一目瞭然だが、大きな作品に取り組むために新作を振り付けなかった年もあるものの、ほとんどの年では一年に5,6作品、またはそれ以上の新作を創作と大変多作であった。この本は、彼がどのようなアイディアをもとに作品を創っていったかということが主軸となっているのだが、彼が尽きることのない想像力の泉を持っていたことが感じられる。それは、少年時代に人形芝居づくりに熱中し、自分で衣装や装置まで作っていたことで培われていたものだった。また、マリシア・ハイデの例を持ち出すまでもなく、埋もれていた才能を見つけ出す能力も持っていた。「椿姫」「オネーギン」「ロミオとジュリエット」などの衣装や装置をデザインしたユルゲン・ローズも彼が発掘した才人である。

ユニークだったのは、彼自身は芸術監督用のオフィスを実質的には持たず、シュツットガルト州立劇場の食堂で電話を片手に仕事をしていたこと。ダンサーやスタッフが彼を捕まえたければ、食堂に行けば見つかるということであった。彼は劇場のメンバーとのコミュニケーションを非常に大事にしていたのである。彼の頭に浮かんだアイディアは独り占めするものではなく、共同作業を行うダンサーやスタッフと共有し、話し合い、変化させ、構築するものであったため、必然的に作品を作り上げていくメンバーとは親しくなって、それは私生活にも及んだ。そして彼は、自分の作品が、芸術的に優れていると評価されることよりも、多くの観客を楽しませることが重要だと考えていた。なぜなら、この自伝のタイトルにあるように、彼自身の体の中に、”舞台の血が流れている”からだ。

クランコはバレエはダンスとして、そして物語としての次元の両方が機能していることを重視し、ダンスそのものより物語への比重が増してしまった場合にはその作品は失敗したとみなしていた。そして”リアルな人物”についてのバレエを創ることが、彼の大きなモチベーションとなっていた。人物像を”リアリスティック”ではなくて、実在する人物そのものとして創るべきであるという信条を持っており、そのため人間を細かく観察することが習性となっていた。だからこそ、彼はドラマティックバレエの振付家として成功したのだろう。たとえば、女性の登場人物は旧来の概念と離れて、必ずしも優しく美しくあるべきではない、処女性の呪縛から解き放たれるべきであり、女性は女として、男性は男として作品の中で自由に存在すべきであると考えていた。

初期の「貴婦人と道化師」を見ればわかるように、彼の作品にはヒューマニズムの視点が強く感じられる。クランコは、南アフリカでの少年時代、自宅の使用人に有色人種がいて親しくしており、南アで黒人が差別されていることに嫌悪感を抱いたことが、国を出た大きな理由であると語っていた。彼の人生の終わりの方の作品には、イスラエルのバットシェバ・ダンスカンパニーに振りつけた「Song of My People(Ami Yam Ami Ya'ar)」がある。イスラエルの俳優によるヘブライ語の詩の朗読が使われているこの作品は、クランコが自身のユダヤ系のルーツを意識していたことが創作した理由の一つであったが、創作している最中に、強制収容所で腕に番号を刻みつけられてしまったとおぼしき女性ウェイトレスを見かけたことが作品のイマジネーションを喚起したというエピソードに強い印象を受けた。「Song of My People」は、ホロコーストがモチーフとなっているが、クランコは自分自身にユダヤ系の血が流れていてそのルーツを意識していると共に、そのユダヤ人を滅ぼそうとしたドイツという国で働いていることに強い葛藤をもって苦しんでいたとのことである。(この作品は、昨年シュツットガルト・バレエの50周年記念で同バレエ団で初めて上演されたのだが(全部ではなくパ・ド・トロワ)、見逃してしまって残念であった) 

「オネーギン」が初めてロシアの劇場(スタニスラフスキー・ダンチェンコ劇場)でシュツットガルト・バレエにより上演された際、クランコは地元のアーティストたちと交流したのだが、その中で親しくなったキーロフ劇場のダンサー(ヴァレリー・パノフとその妻)が亡命を希望していた時に、クランコが彼らを助けようとしたものの彼らは出国禁止を言い渡されて辱めを受けたという事件があった。その年、シュツットガルト・バレエが”バレエ週間”にボリショイのダンサーを招待することになったのだが、クランコは、彼らが出国できるようになるまでロシアのダンサーはシュツットガルトには呼ばないこととした。(彼らが出国できたのは、クランコが亡くなった後のことであった)クランコの生涯最後の作品は、マーラーの未完成の第十交響曲に振りつけた「Traces」で、全体主義者によって人生を破壊された女性を描いており、彼ら夫妻に捧げられていた。クランコがいかに友情を大切に思っていたかが伺えるエピソードである。

クランコの中には相矛盾する性質が同居しており、人と交わることが好きでありながら、特定のパートナーとの長い関係を保つことは苦手だった模様である。同性愛の傾向は少年時代から自覚しており、それに気がついた父親がその事実を寛大に受け入れたことは、彼の人間性の形成に大きな影響があったものと伺える。

クランコの大きな功績としては、ジョン・ノイマイヤー、イリ・キリアンなどのちのバレエ界を代表する振付家を育てたことも挙げられる。シュツットガルト・バレエのファン組織である「ノヴェール・ソサエティ」(1958年設立)が主催している「若手振付家」プログラムで、クランコがマチネ公演において積極的にカンパニー内の若手の振付家を登用するようになり、そのプログラムが10周年を迎えた1969年までに、18人の振付家志願者が作品を発表するようになっていた。クランコは、若手振付家プログラム10周年を記念したパンフレットの中で、振付家はどうやって育てられるかについて述べている。「教育、才能と運である」と。振付家はあらゆるスタイルのダンスが教えられている良い学校で学ぶ必要があり、作品に取り組んでいる一流のダンサーや、偉大な振付家がアイディアを実現する様子をみる経験も必須だと。そして最も重要なのは、ダンサーを提供し、そしてリハーサルや舞台を実施できる団体があること。クランコは、最後が最も実現が困難な要素であると実感していた。自身の作品が上演されるようになるまでには戦いの日々であったと。紙の上に自身を表現できる画家や作曲家が羨ましかった。振付家が死んだら、作品は残らないと思っていたからである。だが結果として、「パゴダの王子」を例外として、彼の作品の多くは死後40年近く経った今でも、ドイツ国内をはじめとして、パリで、ロンドンで、ニューヨークで、オーストラリアでと世界中で上演され続けているのであった。

シュツットガルト・バレエは今も、新しい振付家を生み出す土壌を持ち続けており、現在も「若手振付家の夕べ」は行われている。クランコの死後も、ウィリアム・フォーサイス、ウヴェ・ショルツ、そして現在においてはクリスチャン・シュプック、マルコ・ゲッケ、ダグラス・リー、そしてコール・ドの現役若手ダンサーでありながらABTにも作品を提供しているデミス・ヴォルピがこのプログラムの中から活躍している。クランコは、惜しみなくその経験をダンサーたちや振付家に提供して、多くの舞台人を育てていたのであった。彼の没後に「ジョン・クランコ・スクール」と命名されることになるバレエ学校の教育水準を高め、65年に今の形にしたのも彼であった。バレエ学校と、一般教育を同時に行う学校はドイツでも初めてだった。

本編233ページと短い伝記ではあり、クランコの盟友であったケネス・マクミランの伝記「Different Drummer」ほど密度の濃いものとはなっていない。シュツットガルト・バレエ時代のダンサーたちの生の証言などをもっと読みたかったという気もする。だが、この本が出版された時には存命中だった彼の母親への取材をはじめ、多くの情報源に当たっているとともに、大変読みやすい本であり、またクランコが振りつけた作品のほとんどについて言及されているということでも貴重な資料となっている。彼の子供時代の肖像から、振付作品を踊るダンサーたちまで、多くの写真も掲載されている。現在は絶版となっているが、Amazon.comなどで安価な古書を入手することが可能。


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