ジャン=ギヨーム・バール氏講演会
「ダンス・クラシックの今:伝統と革新のはざま、逆説に満ちた世界」(青山学院大学文学部フランス語学科主催)
http://www.cl.aoyama.ac.jp/french/2012/conference.html
元パリ・オペラ座バレエのエトワールで、現在はオペラ座ほかで後進の指導に携わりつつ、初全幕振付作品「ラ・スルス(泉)」が昨年オペラ座で上演されたジャン=ギョーム・バール。彼のレクチャーが無料で聴けるということで青山学院大学へと足を運んでみた。
ジャン=ギョーム・バールは、指導者、振付家としてだけでなく、ダンス・クラシックについて相当の知見を持っており、極めてアカデミックな内容の講演を、多くの映像資料、そして自らの美しい実演をも交えて行なってくれた。映像を豊富に用いた周到な準備を経て、大変わかりやすい内容に噛み砕いており、主張も明解で論旨が一貫していた。
ダンスクラシックが古典美術から影響を受けていること、古典美術―絵画や彫刻のポーズにも見られるエポールマンの持つ意味、アンドゥオールの持つ意味についての話がとても興味深かった。また、ダンス・クラシックにおいて重要なのは腕の動きと視線であるという話も面白い。
テクニックに注目が集まるあまりに現代のバレエが失ってきたものについての話も示唆に富んでいた。シルヴィ・ギエムの登場は革命的なことであったけれども、彼女の持つ高い芸術性や、柔軟な身体を強靭なものにするための見えない努力が忘れ去られて、ただただ彼女のように踊りたいというダンサーばかりになってしまったのは、困った現象であったともバールは語っていた。行き過ぎたテクニックの追求により、ダンサー生命が短くなっている話や、身体的な条件に恵まれないために優れたダンサーが思うようなキャリアを得ることができないという問題点も指摘した。
「眠れる森の美女」や「海賊」「ドン・キホーテ」の様々な年代の映像を見せて、古い映像においては現代のようなスーパーなプロポーションやテクニックはないけれども、ダンサーの感情や品性が伝わってきているのがはっきりわかる、それに対して現代の映像では、まるで体操やアクロバットのようになっていて、芸術性が失われているのではないかというバールの指摘には思わず頷いてしまった。
これぞダンス・クラシックの理想、としてバールが見せてくれた映像は、ガリーナ・ウラノワの「エチュード」、モニク・ルディエールのリハーサルするシーン、そしてナタリア・マカロワとミハエル・バリシニコフの「アザー・ダンス」。それぞれが、思わずうっとりとして見入ってしまうほど情感豊かな踊りであった。
バールの考えるダンス・クラシックとは、ダンサーの感情が踊り全体に現れるものであり、時代を超えた普遍的な魅力があり、優雅で軽やかでドラマを感じさせるものであるということがよくわかった。また、芸術に完璧というものはなく、完璧を目指すことで失われるものがある、アートは未完成なものであり、「絶対を探求する」ことこそが重要であるという主張には説得力があった。最後に彼が見せてくれた二つのポール・ド・ブラの例では、二つ目の、気持ちを込められた美しい腕の動きに惚れぼれとしてしまった。
パリ・オペラ座というダンス・クラシックを伝承するカンパニーでありながら、今では積極的に現代作品を取り入れている場所で、バールの考えているところは、今や異端ですらあるのではないかという気もした。彼自身、ダンス・クラシックの今後の行方については悲観的だという。だが、ダンス・クラシックが生まれた場所として、オペラ座はその伝統を守り続けて欲しいと思っている人は多いだろう。ダンス・クラシックを重んじながらも、新しいダンスを生み出すにはどうすればいいのだろうか。その中で出た答えのひとつが、バールの振りつけた「ラ・スルス」であるというのはよくわかった。ぜひとも、この「ラ・スルス」を日本で観る機会を与えて欲しいと思う。
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(以下、聞き書きであり、録音していたわけではないので、正確性には欠けるかもしれませんが、メモです)
講義の前半は、ダンス・クラシックの定義、ということから始まり、その歴史をざっと俯瞰。
ダンス・クラシックは、感情を運ぶ表現方法であり、理性と感情をテクニックで結びつけたものであり、光に満ちたポジティブなイメージ、絶対の探求という要素がある。ダンスにおいての道具が、ダンサーの身体であり、その身体を使えるようには長い時間がかかるものである。そしてダンス・クラシックとは、文明を得た人、つまりはルネッサンスを経た人々のダンスである。自らを取り巻くことがらを考察し発明する力を得た人々、自らの身体の可能性と限界についての知識を持ち、あらゆる感情をコントロールすることができる人々のダンス。造形的な形象としては、古代の彫像を模したものであり、それは均整という名の調和、形態を通して超越性を獲得したものである。
これらを象徴するものが、エポールマンである。ミケランジェロのような古代の彫像にもエポールマンは見られるし、ダ・ヴィンチの絵画もこれらの古典から影響を受けている。ルネッサンスの肖像画などにも、エポールマンが使われている。エポールマンとは、すなわち深さを生み出すポーズであり、古典的な芸術には備えられているものだ。水平と垂直のラインはダンサーに安定を保証してくれるものであり、垂直軸を起点として全ての動きが展開するものである。そして上体の位置が感情を表現する機能を持っている。(エポールマンを少し実演)
-ダンスの歴史-
16世紀の終わりに宮廷のダンス(バロックダンス)が登場し、ルイ14世の時代にはダンスとして真剣に取り組まれるようになってプロのダンサーの育成が体系化されるようになる。この時代に推奨されたのがエレガンスで、自然な状態を努力もしていないように見せることが重視され、エレガンスを示す5つのポーズが考えられる。それが、すなわち現在のバレエでも使われている5つのポジションである(と、バールがこれら5つのポーズを実演)
5つのポジションは、アンドゥオールを基本としているが、アンドゥオールが使われるようになったのは、横に開いている方が自然に横にも後ろにも移動できるからだ。また、アンドゥオールは機能的な役目の他にも、世界に向かって開く姿勢、観客に持っているものを与える姿勢をも示していて、心理的な側面も持ったポーズなのである。
バロックダンスの時代には振付も多彩となっていき、腕の動きも体系化される。体のポジションも、アン・ファス、アン・ナヴァン、アン・ナリエールなどが取り入れられる。18世紀には衣装も軽くなり、それに伴いテクニックも発達してきた。オペラと結び付けられたダンスが自立し、「バレエ・ダクシオン」が誕生する。18世紀から19世紀にかけてダンス・クラシックは発展し、ダンサーの跳躍が垂直方向に高くなり、ピルエットの技術も上がる。オーギュスト・ブルノンヴィルのスタイルにこれらは今も残っている。アンシェヌマンのつながりも豊かになってきたが、今のようにアクロバティックな踊りや理由のないアクションは存在していなかった。
次にロマン主義の時代がやってきて、女性ダンサーが前面に出るようになった。シルフィードの登場に象徴されるポワントの軽い動きが出てくる。19世紀後半にイタリアで華々しいテクニックが登場し、チェケッティがそれらのスタイルを広げ、プティパの作品の中にそれは現れている。20世紀始めにはディアギレフが率いたバレエ・リュスが登場し、男性ダンサーの踊りが再び発展するとともに、アブストラクト・バレエも生まれた。1917年のロシア革命で、ダンスは新しい方向へと向かう。体操から発生したアクロバティックな動きやスペクタクル化する。1950年代にはバランシンが細長い身体を強調する作品を作るととも、新しいダンサーの身体のあり方が登場した。
後半は、ダンス・クラシックとはそもそも何なのかということを考察すると共に、時代の変化によって失われてしまったものや、現在のダンスの傾向に対しての批判的な考察が登場した。
―そもそも、ダンス・クラシックとは何か?―
ダンス・クラシックとは、人間の形に対する敬意であり、感情を見せていく入れ物である。タマラ・カルサヴィナが言った言葉がある。観客の目は身体の一部に行くのではなく、ダンス全体を観るようにさせなければならない、大事なのは、ダンスを表現する力である、と。「眠れる森の美女」の1954年(65年の聞き間違い?)の映像(アラ・シゾーワ主演)と2011年の映像(スヴェトラーナ・ザハロワ主演)を見て、2011年の映像では視線が引きつけられているのは脚であるけれども、1954年(正しくは65年と思われる)の映像では、表情に目が引きつけられる。3,40年前に大事に考えられていたのは、感情表現であり、その思いの強さが体に出てきたものであった。
―テクニックの行き過ぎに対する危惧―
1980年代にシルヴィ・ギエムという驚くべきダンサーが登場した。彼女の解剖学的な可能性は比類ないものであった。だが、あまり知られていないことだが、彼女は非常な柔軟性を制御するために大変な努力をした。くるぶしを強化しなければならなかったし、柔らかすぎる背中を鍛えなければならなかった。ダンス・クラシックは身体の柔らかさと共に筋肉の緊張をも備えなければならないのだ。観客がギエムのテクニック的な面にのみ注目し、彼女の非常に高い芸術的な資質が語られないのは問題である。バレエ界の全てが、(テクニック的な意味で)ギエムのようになりたいと思うようになってしまった。このような身体を持っていないダンサーはそれだけでダンサーという仕事につけなくなってしまった。
ダンスは脚を高く上げるだけのものではない。19世紀に存在していた軽やかで速いダンスは一体どこへ行ってしまったのだろうか。柔らかすぎる体はバットゥリーには障害となってしまう。脚を腰以上に上げるということはかつては教師に注意されていた。19世紀において脚を高く上げるのは、フレンチカンカンのダンサーだけだった。ラインの調和はどこへ行ってしまったのだろうか。観客が大喜びするから、脚を高く上げるようになってしまったのではないか。バランシンの「セレナーデ」では、ア・ラ・スゴンドが使われない時には、腕と脚はパラレルになっていて、手と視線もパラレルとなっていた。(モニク・ルディエールがリハーサルする映像)今日のバレエは、ルディエールのような美しさを失ってしまったのではないか。ロシアで教えた経験もあるが、現在のロシアのダンサーの多くはバットゥリーを嫌がっていた。これは40年前には考えられなかったことである。バットゥリーはダンス・クラシックの重要なテクニックで、感情を伝えるものである。
―男性ダンサーにみられる傾向―
最近の男性ダンサーにおいては次の二つの傾向が見られる。ひとつは、両性具有的な男性ダンサーが出現したことである。男性と女性というダンスクラシックでは重要な区別が、現在では曖昧になってきている。彼らは驚くほど長く細い脚を持っているが、そのような脚で古典的なテクニックを使うことができるのだろうか。
また、もうひとつの男性ダンサーのカテゴリーとしては、アクロバティックでアスレチックなダンサーが挙げられる。このようにアスレチックなダンサーは、ダンサーとしての寿命がほかのダンサーと比較して短くなってしまう傾向がある。(と、ここで各年代における、いくつかの「海賊」「ドン・キホーテ」等の映像を上映。最初の二人が誰だったかは不明。ルジマトフのアリ、マラーホフ(ABTのランケデム役)、マトヴィエンコ(ラトマンスキー版「海賊」)、ワシーリエフ(「パリの炎」))
「ダンス・クラシックのダンサーになるには、このように超人的なテクニックが必要なのか」とバールは疑問を投げかける。最後の方の映像については、舞台の代わりに体操のマットを敷いても違和感がないのでは、と批判的であった。
―ダンス・クラシックまとめ―
ダンサーが観客の注意を自分に引きつけることができるのは、視線と、その視線を延長する手である。これによって、舞台空間の広がりを感じさせることができるからである。18世紀中盤に、ノヴェールは、「手が行き着く場所に目があり、目が行き着く先に心がある」と書いた。インドで数千年続く伝統舞踊でも、「手が行くところに目がある、目が行くところに精神があり、精神が行き着くところに感動がある。エモーションが湧き上がったところに感情がある」と同じようなことが伝えられている。ダンスを感動的にさせるものは、すべてが魂、そして視線によるものだとしている。ギレーヌ・テスマーは、ジゼルのリハーサルを終えた時に、ウラノワの伝えようとしたことがわかったと語っている。観客に伝わるのは、身振りではなく思考の力であると。
ーダンス・クラシックの今後―
しかし、現在においては、ダンス・クラシックのテクニックを使ったコンテンポラリー作品で問題が提起されている。(と、ウェイン・マクレガー振付によるオペラ座の現代作品2作品の映像を上映)ダンス・クラシックのテクニックを使ったダンスではあるが、ダンスはテクニックだけのものではない。テクニックは手段、道具にしか過ぎないのである。ダンス・クラシックとは、古典芸術の思想を反映し、品性を重んじていてポジティブなものであるが、先ほど観た映像では、顔の表情は体の声を聞いていないように見えて、古典芸術の思想とは対極的なものである。ダンス・クラシックの特徴である、ハーモニー、時を超えた感覚が数量的なものに代わってしまっている。それはダンスコンクールでも特徴的なものとなっており、芸術という数量化できないものが、テクニックによって数値化されてしまっている。偉大なアーティストは今日でも存在しているが、残念に思うのは、優れたアーティストであっても、身体的な資質、テクニックを備えていないために思うようなキャリアを描けないことである。ダンス・クラシックの将来については、悲観的にならざるを得ない。
(質疑応答)
Q.今回は音楽性についての話が出なかったのはなぜか
A.今回の講演は、ダンス・クラシックのアカデミックな話を中心にしたために音楽性の話は割愛した。今日において、体操的なダンスがありとあらゆるところで席巻し、6時の形からその後の展開をどうするかということばかりに注意が行ってしまっている。体に無理をさせてダンサー生命を縮めてしまう踊りより、もっと身体に優しい踊りをすべきであると考えている。現在は無理をしたことによって30歳くらいでキャリアを終えてしまうダンサーが多くなってしまっている。そのようなパラドックスについて話したいと思った。
Q.今回のテーマを日本でレクチャーしようと思った理由は何か
A.ダンス・クラシックは、言葉にできない表現、数量化できない表現を重視したものである。日本においては特に、名前のあるカンパニー、名前のあるダンサーが好まれる傾向が特に強く、その傾向に警鐘を鳴らしたいと思った。日本のバレエ関係者も沢山知っているが、日本のダンサーで優れた人もたくさんいる。どういうダンスが素晴らしいのかを改めて考えて欲しいと思う。
舞台を見た時に強い印象を与えられたのと感動するのは違うことである。動かない、ということもダンスの一つである。演劇的なこと、言葉にならないものを表現し、身体を歌わせることを学ぶ必要がある。バランシンの作品によって、体が歌うことを教えてもらい、身体が歌えることを教えてもらった。
また、完璧さを求めることはダンサーにブレーキをかけてしまうものである。目的があるから完璧ということを考えてしまうのである。アート、芸術に完璧というものはない。アートは未完成なものであり、アーティストは「絶対の探求者」であるべきである。絶対を探求しているうちに自分自身を見つけるのだ。筋肉の正しい使い方を学ぶのは早い段階から必要なことである。しかしながら、厳密さと正確さを混同する傾向がある。規律を守ろうとするあまり表現が失われてしまうことがある。毎日の鍛錬は必要なことであるが、自分を超える、自分の中の心の自由を目指していくことが必要だ。魂から動きが出ると、まったく違ったものになる。(と、ポール・ド・ブラを二つ実演。二つとも形は同じもので正確に動かしているのだが、二つ目には気持ちが込められているので、同じ動きでも全く違っていてとても優雅で美しいものとなっていた)
追記:この講義で紹介されたアラ・シゾーワの「眠れる森の美女」の動画を見つけました。昔風ではありますが素晴らしいです。
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