3/28新国立劇場バレエ団 ボリス・エイフマンの《アンナ・カレーニナ》 Boris Eifman's Annna Karenina New National Theatre
新国立劇場バレエ団 ボリス・エイフマンの《アンナ・カレーニナ》
振付・台本:ボリス・エイフマン
音楽:ピョートル・チャイコフスキー他
(交響曲第6番《悲愴》,弦楽セレナード 他)
装置:マルティニシュ・ヴィルカルシス
衣裳:ヴャチェスラフ・オークネフ
照明:グレブ・フィリシチンスキー
ボリス・エイフマン
アンナ:ニーナ・ズミエヴェッツ (ボリス・エイフマン・バレエ劇場)
カレーニン:セルゲイ・ヴォロブーエフ(ボリス・エイフマン・バレエ劇場)
ヴロンスキー:オレグ・ガブィシェフ (ボリス・エイフマン・バレエ劇場)
キティ:堀口純
新国立劇場バレエ団
休憩を別にすると1時間半ほどと全幕作品にしては短く、怒涛のように展開していく舞台だった。中劇場での上演ということもあり、物語バレエだから演劇的かと思いきや、演劇的な部分とそうではないところがあって、そのちょっと居心地の悪い不協和音的なところが逆に快感となるような、不思議な作品だった。長大な原作「アンナ・カレーニナ」(私は読んでいない)から細部をそぎ落とし、エッセンスを抽出し、シンプルな構成へと作り変えたことによって、ややもするとダイジェスト版的に単純化されたきらいもある。だけど、エイフマンの抽出の手法はユニークで、舞踊という形式をとることによって、物語を巧みに抽象化しているように感じられた。
抽象化の手法として、主人公3人(キティはわりとどうでもいい存在)と、それ以外の世界=群舞をうまく分離し、不倫を公然と行ったことで世間から指弾されるアンナの孤立感を際立たせている。群舞は、宴の参加者などを表しているのだが、それが時にはアンナたちを排除する社交界となったり、アンナを忘れるためにヴロンスキーが出征した中隊となり、アンナの幻想を彩る性的なメタファーとなり、旅先のエキゾチックだけどよそよそしい熱狂となり、そして最後にアンナが身を投げる鉄道の車輪と変幻自在に姿を変えていく。次々と衣装を替え、怒涛のように繰り広げられるこの群舞には圧倒的な迫力があり、凄まじい情報量で一度では追いきれないほど。このノンストップともいえるようなめくるめく群舞を踊りきった新国立劇場バレエ団には、大きな拍手を送りたい。そして、1回しかこの作品を見られなかったことが悔やまれる。
一方、主役3人の踊りは、この群舞とは異なったというか、切り離されたかのような世界観と舞踊言語を使っているかのようだった。(主役に、新国立劇場バレエ団の装飾系ダンサーとは異なった、エイフマン・バレエの長身肉食系ダンサーたちを起用したことも、大きな意味があるように思われた)ソリストと群舞がポリフォニックに影響しあって、独特なアクセントのある作品世界を作り上げていっている。そしてその中でも、アンナについては、一人の上流社会の気品あふれる妻であり愛情あふれる母であった女性が、ヴロンスキーとの愛(というか情欲)に溺れていくあまり夫も息子も捨て、自分を見失い、混乱し、そして破滅していく様子を、ダンスを通じて克明にそして鮮烈に描いていた。
後半では文字通りアンナは肌色のレオタード一枚の裸になって眩暈がするような性的な妄想に耽溺しながらも、やがて小さく身をかがめて檻のような枠に自分を押し込めてしまう。衣装を剥ぎ取られたその姿のなんと痛ましいことか。アンナが混乱しもがき苦しんでていく様子を、驚くべき身体能力(セパレーションの物凄さ!)と柔軟性による想像を絶する動き、凄惨なまでの踊り=演技で見せたニーナ・ズミエヴェッツは、ただただ凄まじかった。エイフマンは、パンフレットの中でアンナの情念=情欲を描きたかったと語っているが、その点においては大いに成功しているといえる。
このアンナのどうにもならない、全てを焼けつくすような情念=情欲を中心に据えたということで、必然的にアンナとヴロンスキーの関係というのは欲望の一点に絞られてしまって、ヴロンスキーが何を考えていたのかということもわからないし、深みというものには欠けていると感じられたところがあった。役柄としては、アンナの夫カレーニンの妻を思う気持ちの方がずっと共感できるようになっていたと思うし、演技者としての力量も、セルゲイ・ヴォロブーエフが優れていたように感じられた。
アンナとヴロンスキーのパ・ド・ドゥはそれぞれ超高度な振付だ。フィギュアスケートのペア競技を思わせるものから、アクロバティックなリフト、それらはクラシック・バレエのテクニックと舞踊言語を使いながらもオフバランスや不自然な方向へと身体を屈曲させるものも取り入れられており、相当な力量のある踊り手でないと踊ることは難しいと感じさせた。ヴロンスキー役のオレグ・ガブィシェフ、そしてカレーニン役のセルゲイ・ヴォロブーエフとも、長身で上半身ががっしりしており、サポートが非常に上手い。
その中で最も美しい瞬間は、1幕で惹かれあうアンナとヴロンスキーがカーテン一枚を隔てたところにおり、「悲愴」の第一楽章が流れる中同じ動きをしてやがてはカーテンを超えてひとつになっていくというもの。このシーンは本当に胸をざわつかせるような官能美に満ちていて、エイフマンの演出力の真骨頂となっているのではないかと思った。基本的にこの作品でのエイフマンのパ・ド・ドゥの振付の語彙はさほど多くないため、一つ一つのパ・ド・ドゥはそれぞれ素晴らしい振付ではあったものの、このラブシーンのシーンの陶酔感を超えるようなものがなかったので、若干単調に思われてしまったところもあった。
だが、チャイコフスキーの「弦楽セレナーデ」から始まり、「悲愴」や「ロミオとジュリエット」などチャイコフスキーの曲を中心に、アクセントとして現代的な音楽を使ったエイフマンの選曲センスが優れていることもあり、群舞での音楽パートの振り分け方も巧みであったため、全体としては非常に見ごたえのある作品となった。グラマラスで時にはゴージャスな衣装の数々、駅舎を思わせるアール・デコ的なアーチを多用したセットデザインも非常にセンスが良く美しい。最初のシーンから、アンナの死を暗示する鉄道のモチーフが使われているとは!
ぜひこの作品は新国立劇場のレパートリーとして大事にして、キャストを変えながら再演を重ねて行ってほしいと思った。新国立劇場の優れた群舞の力が存分に発揮された作品となっており、この作品をレポートリーとして持っていることは世界に誇れることだと思う。
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