感想を書く前に、デンマーク・ロイヤル・バレエの写真を撮影しているDavid Amzallagさんからtwitterでメッセージを頂き、「ロミオとジュリエット」の舞台写真を載せたサイトを教えていただきました。NBSで使っているオフィシャルの写真も撮られているようです。
http://www.blueballet.net/Gallery/Romeo_and_Juliet_09B/index.html
美しい写真をたくさん見ることができます。他のデンマーク・ロイヤル・バレエの舞台写真もたくさんあります。
http://www.blueballet.net/
ストーリーを説明していくと長大になってしまうので、端折りつつ。(明日も観るし)
ノイマイヤー版の「ロミオとジュリエット」は、彼がまだフランクフルト・バレエに所属していた時に創られたもの。1971年の作品というから、ノイマイヤー当時29歳と若く、確かに若書きだなと思わせるところがある。ロミオとジュリエットを中心とした登場人物たちが若々しくて、特にジュリエットは等身大の16歳の女の子として描かれているし、最近のノイマイヤーのシンプルで洗練された舞台づくりとは違って、カオス的な面が出ていて楽しい。
「ロミオとジュリエット」という作品が大好きなのは、この作品、特にプロコフィエフの音楽に現れている疾走感、生き急いだ二人の一瞬燃え上がって散る時の輝きが眩しいから。マクミラン版、クランコ版の二つのヴァージョンにも、疾走する熱い恋が描かれていて、大好きなのだけど、ノイマイヤー版にもそんな情熱的な側面が顕著に出ていて、とても素敵だった。しかも、ロミオとジュリエットを演じる二人のダンサーが、若い。若さゆえの未熟さですら、かえって魅力的に見せることができているのが良かった。
ただ、ノイマイヤー独特の、登場人物一人一人が細かく演技をしているのを同時多発的に見せている演出手法が使われているため、一度観ただけでは、見落としてしまったり、気がつかなかったりするところがある。同時多発的な演出は、「ロミオとジュリエット」ならではの、生き生きとした疾走感を出すには効果的ではあるのだけど。
1幕の最初に出てくる人物がローレンス神父で、これがロミオとそれほど年が変わらない若者が演じているというのが新鮮だ。まったく予習をしないで観たから、最初彼がローレンス神父なのかということもわからなかったくらい。若い身ながら神に身を捧げたストイックで生真面目な青年だけど、同時に、ロミオに対しては兄貴のような存在でもある。(パンフレットには親友って書いてあるけど、それはちょっと違う感じ)ローレンス神父が若くて、それゆえ考えが浅いところがある、ということで悲劇がおきてしまった面があって、効果的な設定だった。
若さが弾けている、という面ではなんといってもジュリエット。登場シーンではお風呂から上がりたてて、バスタオル一枚!なのにセクシーって感じではなく、友達と元気いっぱいにふざけているのだから。ジュリエットっていうのは、演じるダンサーによっては幼すぎたり、分別がありすぎたりすることもあるんだけど、ここでは、本当に普通のちょっとお転婆な女の子なんだな、って思わせてくれる。母親キャピュレット夫人が教えるメヌエットの振付が全然覚えられなかったり、舞踏会に足を踏み入れる時に階段で転んだり。3幕でロミオが去って行った後、パリスに会わされた時に手足までばたつかせて嫌がっているところも、ロミオとの出会いで少し大人になったとはいえ、まだまだ16歳の女の子に過ぎないことを思い起こさせてくれた。
ジュリエットとロミオのパ・ド・ドゥのシーンは、ほかの版とはかなり違っている。二人の若くて熱い恋、疾走する情熱をライブ感たっぷりに描いている。バルコニーのシーンでは、ロミオがジュリエットのそばに行きたいあまり、バルコニーの上まで駆け上がってきて、二人でバルコニーを降りていく。一生で最初で最後の恋に出会い、どう
やって燃える想いをぶつけていいのかもわからず、ただ歓びに震えて求め合うストレートな、ちょっと幼い熱情。少し不器用に見えるほうが、本物の感情そのままを伝えているように思えてくる。別れ際でも、一度バルコニーの階段を上っていったジュリエットが、やっぱり離れがたくて、階段を下りて行き、もう一度抱き合って手をつないだまま階段を上って繋いだ手をなかなか離さない。マクミラン版の「ロミオとジュリエット」では、二人の高揚する気持ちを、ジュリエットを高々とリフトすることによって象徴させていた。上下の動きがとても印象的な振り付けだ。ノイマイヤー版の「ロミオとジュリエット」のバルコニーのシーンは、やはりリフトのシーンがとても多いのだけど、マクミラン版と比較すると高い位置へのリフトが少なく(高いリフトでないだけ、難易度は高いと思われるが)、高揚感というよりは、スピードと疾走感を重視しているようだ。ロミオは、ジュリエットを抱えたまま走ってばかりいるのだから!
ロミオがティボルトを殺してしまった後の、別れの朝のパ・ド・ドゥの哀切さも鮮烈だった。離れたくない、でもどうしても離れなくてはならない、二人の切り裂かれるような気持ちが、直線的で鋭さのあるリフトを多用した振り付けから伝わってくる。強く抱きしめあった次の瞬間には、ロミオがジュリエットを突き放そうとする。離れがたいジュリエットが、ロミオをベッドへと誘おうとするけど、ロミオは苦しげな表情で拒絶する。本当はもう一度だけでもジュリエットを抱きたいのに。そしてジュリエットを突き飛ばすかのように突き放し、手を伸ばしたジュリエットを置いて振り向きもせずに走り去る。一人取り残されたジュリエットが哀れを誘う。その余韻も終わらないうちに、乳母に服を着せられた上、ジュリエットの両親とパリスが寝室に入ってくるのだから、なんという残酷な運命!
その事実に耐えられなくなって、パリスの手を触るのも汚らわしいって全身でジュリエットが嫌がるのも無理はない。手がつけられないような駄々っ子に戻ったジュリエットは、やっぱりまだ16歳、恋を知ったばかりの女の子。
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主人公二人以外の踊りからも、生身の人間が確かに舞台上に存在しているというライブ感、疾走感が感じられるのはなぜだろう。
一つには、場面転換のスムーズさがある。ノイマイヤーの作品は、近年の「ニジンスキー」などもそうだけど、舞台装置が大変よくできている。上手には張り出した回廊と階段。下手には、扉のついた階段。この二つの装置が左右に移動することによって、あるときには回廊はバルコニーシーンに使われ、そしてあるときには、回廊の下部が開いて、キャピュレット家の浴場になる。左側の装置も、キャピュレット家のボールルームの入り口になったかと思えば、墓所の重い扉にもなる。変幻自在なこれらの装置は、室内にも、室外にも変身する。場面転換のために時間をかけることなく、よどみなくストーリーが進んでいくのだ。
また、マイムを極力排し、踊りそのものでストーリーテリングを行っているのが、この作品を生き生きとしたものにしている。どうしても説明が必要な時に活躍するのが、この作品で非常に重要な役割を果たしている旅芸人の一座だ。
旅芸人の一座が街を訪れることによって生まれる祭りの高揚感、混乱、祝祭空間。その興奮の中で、悲劇は加速する。
主人公たちの行く末を占うように、旅芸人の一座は暗示的な芝居を繰り広げる。2幕の最初で、彼らはロミオとジュリエットの物語の結末を演じてみせる。ジュリエットはその芝居の中で死んでしまうのだ。最もドラマティックなのが、マキューシオの死。マキューシオはもともとこの旅芸人の一員で、死の仮面をつけ、死の舞踏を見せて登場する。ティボルトと剣を交え、致命傷を負ったとき、彼は芝居の舞台の中に入り込み、役者として一世一代、渾身の名演技を見せる。刺されてしまったのは芝居というフィクションの中であるように見せて、死に至るまでのもがき苦しむ様子ですら、虚構であるように演じて、群集の喝采を浴びる。彼の様子がおかしいと感じているのはロミオ一人。でも、マキューシオの死はフィクションではなかった。
マキューシオは自分の死が真実の出来事ではなかったと見せることによって、ロミオがティボルトに復讐することを阻止したかったのではないだろうか。だけど、その願いは通じなかった…。
ティボルトを殺してしまったことで追放されてしまったロミオは、友人たちの手によって芸人のマスクを付けられ、旅芸人の一座に加わる。どうしてもロミオに会いたいジュリエットは、ローレンス神父を訪れ、ローレンスはジュリエットに毒薬を渡す。毒薬を飲んで仮死状態となったジュリエットを、ロミオが迎えに行き、めでたく二人は結ばれる、というこの作戦を旅芸人たちが演じることによって巧みに説明する。毒薬を渡されても不安におびえていたジュリエットだが、計画の内容を知ることによって徐々に笑顔になっていく。しかし、作戦はあくまでも作戦であるし、芝居はあくまでもフィクション。
このバレエの演出が画期的なのは、フィクションと真実の関係を、旅芸人(時にはマキューシオ)の演じる舞台によって浮かび上がらせているからだ。
人間の、世界がこうあってほしい、こんな風に生きてみたいという願望を映し出すのが、芝居であり、フィクションだ。だが、実際に起こることは、願望どおりには進まない。現実はずっと厳しく、光もずっと少ない。それでも、私たちは、フィクション=物語を愛する。なぜならば、フィクションは現実には起こりえないことを、真実味を持って伝えてくれることにより、私たちに喜びや希望を与えてくれるからだ。
芝居、フィクション、ストーリーテリング。文学作品、そしてバレエそのものが存在する意味の重要性を、この作品は伝えてくれている。「ロミオとジュリエット」は、ノイマイヤーの作劇上の鮮やかな手腕に驚かされると共に、私たちがなぜ、文学や舞台を愛するのかということを再認識させてくれる。
(長くなったので一旦切ります)

(去年の1月に訪れたイタリア、ヴェローナでのジュリエットの像)
デンマーク・ロイヤル・バレエ団「ロミオとジュリエット」
2009年5月23日(土) 15:00開演 会場:東京文化会館
キャピュレット家
キャピュレット夫人:グルロン・ボイエセン
キャピュレット公: フェルナンド・モラ
ジュリエット:クリスティーナ・ミシャネック
ロザライン:ヤオ・ウェイ
ヘレナ:ルイーズ・エステルゴール
エミーリア:ジェイミー・クランダール
ティボルト:ジュリアン・リングダール
乳母:メテ=イダ・キャク
ピーター:イェンス・ヨアキム・パレセン
モンタギュー家
モンタギュー夫人:マリア・ベルンホルト
モンタギュー公:エルリング・エリアソン
ロミオ:ウルリック・ビヤケァー
ベンヴォーリオ:チャールズ・アナセン
バルタザール:オリヴィエ・スタロポフ
キャピュレット家の使用人
サンプソン:アルバン・レンドルフ
グレゴリー:ジョナサン・ケメレンスキー
ポットパン:バイロン・マイルドウォーター
ルチェッタ:エレン・グリーン
グラティアーナ:ブリジット・ローレンス
カミーラ:ヒラリー・ガスウィラー
ウルスラ:ホリー・ジーン・ドジャー
ネル:マティルデ・ソーエ
スーザン:エリザベット・ダム
モンタギュー家の使用人
アブラハム:ジェイムズ・クラーク
アンジェロ:ブライアン・スティーンストラ
マルコ:ジュリアン・ロマン
シルヴィア:ラウル・ドゥーイ
フランシス:レベッカ・ラッベ
マルガレータ:サラ・デュプイ
ポーリーナ:レナ=マリア・グルベール
リヴィア:アマリー・アドリアン
マリア:ジュリー・ヴァランタン
ほか、ロザラインの召使い、キャピュレット家の護衛、キャピュレット家の舞踏会の客、モンタギュー家の護衛
僧ローレンス:クリスティアン・ハメケン
エスカラス(ヴェローナ大公):ポール=エリック・へセルキル
マキューシオ:ティム・マティアキス
パリス伯爵:グレゴリー・ディーン
ほか、ヴェローナの市民、花娘、元老議員、商人、守衛、会葬者、司祭、修道士、修道女
デンマーク・ロイヤル・バレエ学校の生徒 協力:東京バレエ学校
指揮:グラハム・ボンド
演奏:東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団
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