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« パリ・オペラ座 バレエ ノイマイヤー「椿姫」 NHKハイビジョン放映映像 La Dame aux camélias | トップページ | 国立トレチャコフ美術館展 忘れえぬロシア »

2009/04/12

デュマ・フィス 「椿姫」 Alexandre Dumas, fils La Dame aux camélias 

椿姫 (新潮文庫) (文庫)
デュマ・フィス (著), 新庄 嘉章 (翻訳)

このとても有名な小説を未だ読んでいなかったので、ハンブルク・バレエの来日公演が終わってすぐ、新潮文庫版を買った。とても読みやすくて、あっというまに読み終えた。単なるメロドラマではなく、若書きの情熱がほとばしっていると共に、どんな人間も持つ暗い側面も描いていて深い作品だ。

ノイマイヤーは、ストーリーそのものは原作にかなり忠実にバレエ化している。マルグリットは、唯一最期を看取ったたった一人の友人ジュリー(バレエでは、侍女ナニーヌ)の他には誰に知られることもなく、窮乏した上に寂しく死んでいった。マルグリットの遺品のオークションから始まり、そして彼女が遺した手記をアルマンが読んでいく、というところまで同じ。

主人公二人のキャラクター設定はだいぶ違うところがあると感じた。一言で言うと、ノイマイヤーは優しい人なのだろう。原作のシビアで人間の本質を抉り出すようなところは省かれ、より主人公たちに感情移入できるように、そして彼ら二人にフォーカスできるようにキャラクターを作りあげたと感じた。

設定上、マルグリットは原作では20歳そこそこの若い女性だ。アルマンのことを一途に愛し、そしてその愛ゆえに苦しみ、孤独の中で死んでいくというところは同じだが、彼女が日記に綴った言葉を読むと、こんなに年若い女性が、ここまでの分別と知性を持ち合わせることができるのだろうかと思う。

そう考えると、ノイマイヤーがバレエ化に当たって、マルグリットを決して若くはない、むしろかなり年嵩の女性としたのは正しいと言える。原作の持つ残酷さを上手く転化してる数少ない場面。それは、病に臥せっているマルグリットが、衰えた姿に派手な化粧をし、ふらふらと観劇に出かけていくところだ。ノイマイヤーは映像では、若くはないマリシア・ハイデに化粧を落とさせて、素顔をさらさせている。

****

「椿姫」を一種の聖女物語と理解している人は多いと思う。悔い改めた娼婦、マグダラのマリア的なイメージだ。
だが、マルグリットは決して聖女ではない。

小説「椿姫」を読んで印象的だったのは、お金に関する記述の多さだ。マルグリットのパトロンは年収がこれくらいで、アルマンはこれくらいと。そしてマルグリットは月額いくらいくらのお金を浪費する贅沢好きの女として描かれている。そして、毎晩、宴から宴へと渡り歩く狂騒のような日々。アルマンを長時間部屋の外で待たせたりする。アルマンは、彼女が湯水のように使うお金を得るために、ギャンブルに手を出す。

二人が田舎に隠棲して、それがパトロンの伯爵に見つかってしまい、伯爵との関係を絶とうとするときに初めて、マルグリットはお金に対する執着を捨てて、質素に生きようとする。ところが、アルマンの父が二人の関係を引き裂き、再びマルグリットは華やかな日々に舞い戻る。しかしながら彼女の病が悪化し、パトロンたちの財政状態が悪化し、ついにマルグリットの部屋には情け容赦のない借金取りたちが現れ、病床の彼女を苦しめる。死の床にあっても、借金取りたちが彼女が出てくるのを待ち構えているような状態だ。

アルマンを深く愛しながらも、マルグリットは華やかな生活に対する執着、美しいドレスや宝石への執着が捨てきれない。(だからこそ、マノンに彼女は感情移入するわけだ)死を目前にしてようやく、彼女は純粋に愛そのものに転化していき、清められていく。そのあたりの心情の変化を綴るところが、この作品の白眉と言える。苦しみながら最期を迎えても、魂そのものは清められたということでは、この作品には救いがある。

マルグリットの友人である元娼婦のプリュダンス。ノイマイヤーの「椿姫」でも彼女は、マルグリットには親切そうに接しながらも、ティーセットを盗もうとしたり、マルグリットが伯爵につき返した宝石を拾って持って帰ったりと手癖が悪い女性として描かれている。小説のプリュダンスは、さらにお金に汚い年増女である。美しいクルチザンヌとして名高いマルグリットの名前を利用して方々から借金をして、結果的にマルグリットの借金が雪だるまのように膨らんでいく。そしてマルグリットが病に倒れてからは、足が遠のき、ついに見舞いにも来なくなる。

その美しさでパリの裏社交界の名花としてあがめられたマルグリットが、死の床についてからは忘れ去られ、見舞う人すらいない。人間というのは現金なものである。アルマンへの想いと少しの恨み言、孤独のつらさ、病の苦しみを切々と綴っている彼女の日記。やがてペンを握る力すら残されなくなり、最期を看取った友人ジュリーが代わりに彼女が亡くなるまでの様子を記している。マルグリットの臨終の、果てしなく続くような、身を切り刻まれるような苦しみまでも。

****
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(モンマルトル墓地にある、デュマ・フィスのお墓)

一方、アルマンはノイマイヤーが描いたアルマンよりもさらに直情的で、激情的で、若さがほとばしるイメージ。小説では、語り手である「私」が、偶然入った競売会場でマルグリットの遺品の「マノン・レスコー」を落札し、マルグリットの死を知ったアルマンがその「マノン・レスコー」の落札主を探して求めて「私」に出会うところから始まる。「私」に、アルマンがマルグリットとの出来事を語るという構成だ。

強烈なインパクトを残す序章に、アルマンのエキセントリックさが凝縮されている。アルマンはマルグリットの死が信じられず、彼女が本当に死んだという確証を得るために、彼女が葬られている墓を開けて、すっかり朽ち果てているマルグリットの遺体と対面するという凄まじい行為にまで出てしまう。「私」のもとにアルマンがやってきたときの様子からして尋常ではない。「金髪で背の高い、青ざめた顔色をした旅行服の青年で、その服は数日以来着たままらしく、ほこりにまみれていた」 「非常に興奮した様子で内心の動揺を隠す様子もなく、両目を涙にうるませ、声をふるわせながら私に言った」「マノン・レスコー」の本を渡すと、「「たしかにこれです」そう言ったかと思うと、二粒の大粒の涙が開かれたページにぽたぽたと落ちた」

デュマ・フィスがこの小説を書いたのは、24歳という若い時だった。いかにも若い作者が書いたと思える、火傷しそうな情熱がほとばしるような筆運びだ。理想主義者で、正義感に溢れている青年でありながらも、若さの持つ思慮の浅さ、人間としての未熟さ、残酷さ、向こう見ずさが鮮やかに伝わってくる。中でも、マルグリットに捨てられたと思い込んだ彼が、あてつけのようにオランピアと付き合い、マルグリットが苦しむ様子を見ながら喜び、悪口を言いふらすことまでするというむごい仕打ちを幾たびも繰り返すところは、あまりにも辛く、切り刻まれたマルグリットの思いが伝わってきて胸が苦しくなった。アルマンは、そうすることについて罪の意識すら持たず、自分がいかにマルグリットに傷つけられたかということだけを考え、復讐するかのように彼女の心の傷をさらにえぐる。

アルマンが長い物語を「私」に語り終えた後では、あんなにも激しくそして泣き上戸だった彼が、哀しげではあるものの元気を取り返していたということにも、救いがある。ノイマイヤーの「椿姫」の終幕で、マルグリットの日記を閉じたアルマンが、沈痛ではあるが、少し晴れやかな表情を見せていたのと同じ印象だ。

この小説に登場する聞き役の「私」は、ノイマイヤーの「椿姫」では、観客に該当する。

****
「椿姫」という小説は、人間の美しさと醜さを、鮮烈な筆致で生き生きと描いた作品である。ノイマイヤーの「椿姫」は観たけど原作は読んでいない、という人にはぜひ読んで欲しいと思った。この小説に、ここまでの深さがあるとは思わなかったのだ。何度も繰り返し読みたくなるような一冊だ。

そして、この原作の登場人物に近いのはどのダンサーだと、あれこれ想像するのも楽しい。サーシャ(アレクサンドル・リアブコ)は、とても純粋で思いつめるタイプだが、ノイマイヤーがこの作品に加えた優しさを感じさせ、原作のアルマンの残酷さはないように思える。マリシア・ハイデの映像でアルマンを演じているイヴァン・リスカは、背が高く金髪ということで外見的にはかなり近い印象。今のダンサーで言えば、やっぱり金髪のマリイン・ラドメーカーが原作のイメージに近いと思う。マチュー・ガニオも容姿的にはぴったりだと思うけど、ちょっと優しすぎるかな。

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コメント

naomiさま
いつも拝見させて頂いてます
この本「椿姫」は私も公演前から、今に至るまで何度も読み返していますが、読む毎に楽しくなってきますね。
>彼女が葬られている墓を開けて、
ここはとてもショッキングな描写です。またこの小説で、マルグリットがイギリスに渡る前の、「アルマンの仕打ち」の解釈に対して、またその後、日記でアルマンに告白する最後の章が、マノンとの単純ではない比較をとても意味深いものにしている、ノイマイヤーが大好きになります。今でもリアブコのあの苦悩の表現が素晴らしかった事、思い浮かびます。

いつも素晴らしいコメントありがとうございます

naomi様

素敵な記事ありがとうございます!
私もノイマイヤーは優しい、というか、美しい「愛の物語」に昇華してるなあ、と感心した次第です。観劇した後、やっぱり泣いてしまうんですけど、ちょっとすがすがしいんですよね(笑)

また舞台が見たくなってきました。

なぜか早川文庫から出ていた、「ドゥミモンデーヌ パリ・裏社交界の女たち」(山田勝 著)には、クルチザンヌがどれだけ浪費家で、パトロン達が次々に破産していったかが書かれています。色と欲と見栄というだけでは、ちょっと理解しがたいような、現代ではちょと不可解な現象ですよね。

naomiさん
「椿姫」原作の紹介ありがとうございます。

。。。「金髪で背の高い、青ざめた顔色をした旅行服の青年で、中略「非常に興奮した様子で内心の動揺を隠す様子もなく、両目を涙にうるませ、声をふるわせながら私に言った」「マノン・レスコー」の本を渡すと、「「たしかにこれです」そう言ったかと思うと、二粒の大粒の涙が開かれたページにぽたぽたと落ちた」。。。

 マラーホフのアルマンが私のうちに鮮やかに甦りました。最高のアルマンは彼が踊ったアルマンだと思います。
その素晴らしさを今も忘れることが出来ません。
1997年、ノンマイヤーがアルマンダンサーに望むすべてを持ち合わせてた彼は確かにアルマンとして舞台に存在していました。
再び見ることは望めないだろうけど・・・

 マルグリットが劇場でアルマンと見間違える~そんなシーンがありますよね、マラーホフがアルマンを踊った時、その役だったのは、ラドメイカーでした。時が経ち、これからアルマンを踊っていくのは彼ですよね、ウラジーミルが与えてくれた言葉に出来ないほどの感動を与えてくれるダンサーは再び現れるのかしら・・・?!

やはり、Stuttgartのダンサーが第一候補だと思うので、マレインやフリーデマンには今後また踊る機会を与えられるならその時には死力を尽くしていただきたいと思います。そうするだけの価値のある役だと思うし。。。


 私も原作をもう一度読み直してみます。

naomiさん今晩は。
ハンブルグの椿姫を見たとき、作品の素晴らしさとダンサーのレベルの高さに「こんな凄いバレエを見てしまったら、この後私は何を見たら良いんだろう?」と思ってしまいました。
って、次に見たのが「ピーター・ラビット」だったんですけどね。(笑)
原作は去年初めて読みましたが、中学校のときの音楽の先生がマルグリットが娼婦だったことや、アルマンがマルグリットの墓を開けさせる場面を引き合いに出し「汚いものを美しく描くのが芸術だ」と言われていたのを思い出しました。「マノン・レスこー」には全く感情移入できなかった私ですが、「椿姫」は何度読んでも泣いてしまいます。
あとハンブルグ以降、ショパンの「雨だれ」を聞くたびに涙が出そうになるもの困ったものです。

courierさん、こんばんは!

いつもcourierさんの素敵なブログ、拝読しています!

「椿姫」本当に何回も読み返したい、そんな作品ですよね。訳も何種類か出ているようなので、別の訳でも読んでみたいと思います。
おっしゃるとおり、最後の章が胸を打ちます。マルグリットが、単にアルマンの妹と、アルマンのために犠牲になってしまったかわいそうな女性、というのではなくて、葛藤を常に抱えていた生身の人間であったということが良く伝わってきます。
そう、そしてやはりサーシャの演技は素晴らしかったです!マルグリットを侮辱してしまった時の歪んだ顔、彼女を傷つけたことで、彼自身も深く傷ついていたのが迫ってきました。このあたりが原作のアルマンと違っていて、心優しいサーシャらしいというか。

sandyさん、こんにちは。

そうそう、「椿姫」も「人魚姫」もとても悲しい話ではあるのですが、清清しさが残るというのは納得です!最後には人間の善を信じているようなところがあると思うのです。

ご紹介の、「ドゥミモンデーヌ パリ・裏社交界の女たち」、面白そうですね。ぜひ読んでみたいと思います。今絵画とファッションについての本を読んでいるのですが、ここでももちろん、このドゥミモンデーヌが登場します。19世紀の絵画のモデルは、高級娼婦が多かったんですよね。パリのルーヴルの隣にある装飾美術館には、クルチザンヌの部屋の再現がありますが、やはり贅沢な感じでした。

ゆいーちかさん、こんばんは。

マラーホフが演じたアルマンをご覧になっていたのですね!97年というとちょうど私が嫁に行った年で、バレエ鑑賞を控えていた頃だったのです。マラーホフが29歳の時かしら…さぞかし輝くように美しかったことでしょう。そして、小説「椿姫」のアルマン登場のシーンが、たしかにここまではまる人というのはいないかもしれません。マラーホフの情熱的な演技は、ロマンティックでまさに美そのものですからね。もはや見ることが叶わないだろうことは、残念です…。バレエというのも本当に一期一会かと。

そしてそのときの、マルグリットがアルマンと見間違える青年を演じていたのがマリインですか…彼に、マラーホフの魂が受け継がれていくかと思うと感慨深いです。フリーデマンもマリインもこれからのダンサーだと思うので、おっしゃるとおり、死力、全力を尽くして役に入り込んで欲しいって思います。マリインとマラーホフにはかなり共通するところもあると思うし。

ちなみに、「椿姫」はこの間のドイツ行きに持って行き、エッセンでマリインに会った後で読み終えました。

peluさん、こんにちは。

私の友達でハンブルク・バレエを観た人たちの多くは、しばらくは別のバレエは観たくないって言っていました。私も翌週には東京バレエ団の「白鳥の湖」新人公演を観たわけですが。「ピーター・ラビットと仲間たち」私も観たかったです。ノイマイヤーの作品とは違うタイプだから、別腹として見られそうですよね。

その音楽の先生、本当によいことをおっしゃいましたね。「マクベス」の中に出てくる、3人の魔女たちの言葉、“きれいはきたない きたないはきれい”はとても印象的だったわけですが、中学生に「椿姫」を引用するというのはすごい。

ちょうど「椿姫」の来日公演の少し前、偶然NHKのハイビジョンを見ていたら、キーシンのピアノリサイタルを放映していて、ショパンのバラードや大ポロネーズを弾いていたので、もちろん「椿姫」のことに思いを馳せました。ハンブルクを観た後だったら、きっと身動きすら取れなかったことでしょう。ショパンの「雨だれ」の使い方の意外さとうまさには舌を巻きます。音楽というのは記憶を巻き戻すのに効果的というか、ボディブローのように効いてきますよね。

訂正

 マラーホフの「椿姫」最初に見たのは、1999年でした。naomiさんのコメントで、ウラジーミルの年齢が違う。。。?!で気づきました。マリインが劇場の彼!だったのも、ウラジーミル、アルマンロールデビューのこの年ではなく、その後の、2002年?!だったと思います。
マリインもフリーデマンもすでにアルマンを一度踊りましたが二人の
マルグリット、スージン・カンに導かれてやっとどうにか踊っている
ように見えました。彼女が与えるエモーション、深い感情にのせられて自らの感情を盛り立てて・・・与えられて~与える!ではなかったんです。だから、この二人のアルマンを見た時に思ったのは、スージン、あなたはなんて素晴らしいんだろう。。。でした。若者二人は彼女にどれほどの愛と感謝を捧げても足りないわ、と思いました。
スージンの年齢を考えても、次回、彼らが「椿姫」を踊る時には、彼らのマルグリットはスージンではないかもしれません。自らを高め、
お互いに与えて与えられる「椿姫」のアルマンを踊れる日を期待します。

ゆいーちかさん、こんにちは。

良く考えてみたら、マリインはその時点では入団していなかったんですよね。1999年当時のマラーホフでも31歳だから若々しかったはずですよね。マラーホフの繊細さやパッション、精神性はアルマンにピッタリだったでしょうね。(実はマラーホフと生年が同じ私。誕生日はだいぶ離れてはいますが)

残念ながらまだシュツットガルトによる「椿姫」は全幕を観ていなくて、スージンのドキュメンタリーや、YouTube映像でしか観ていないのですが、「オネーギン」のタチアーナは素晴らしかった!本当に胸をえぐられるような思いがして、涙が止まらなかったです。究極のタチアーナだと。この間デルフィーヌ・ムッサンのドキュメンタリーを観たときにもそういう話をムッサンがしていたのですが、パートナーというのは大事ですし、年上のパートナーに教えられることは本当にたくさんあるでしょうね。願わくば、彼ら若いダンサーにこのバレエの精神を伝えきるまで、スージンには頑張って現役でいて欲しいです。いつか彼女のマルグリットを生で観たいです。

ハンブルク、POBと何回か「椿姫」は観ましたが、主役二人は本当に演じるのが難しい!サーシャとジョエル・ブローニュが今まで観た中では完成度が一番高いとは思いましたが…。

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