イリ・イェリネクの「オネーギン」手紙のパドドゥ
オネーギンの備忘録を書いていたら、初日のイリで止まらなくなりました。
それにしても三幕、手紙のパドドゥでイリのオネーギンがまとうオーラの悲劇的なこと。初老に入り人生の厳しさをくぐり抜けてきてややくたびれたオネーギンだが、今なおすらりと背が高く美男子。かえってそのうらぶれ方、老い方がやさぐれた魅力を醸し出しており、再会したタチヤーナが思わず心を揺らしてしまうのも無理がない。あの時あんなにひどくタチヤーナを拒絶し、さらに決闘事件でレンスキーを死に追いやった男が、自尊心の塊だったオネーギンが、足元にすがりつかんばかりに愛を迫る。舞踏会では往時の輝きを失い、時代に取り残された男でも、タチヤーナと一対一で対峙するときは、あの時と同じ、セクシーな大人の紳士として存在している。しかもタチヤーナのことを熱烈に愛しているのだ。
イリのオネーギンは、あの時に振った小娘が美しい社交界の華になっていて、逃した魚は大きいと思って彼女に迫ったのではない。下降していく自らの人生、それに対して今が花の盛りなタチヤーナ。彼は自分の残り少ない生の中に、最後の輝きを点そうと、命懸けでタチヤーナに愛を語る。だから、その最後の人生の賭けで彼はタチヤーナの愛を手にできなくとも、タチヤーナに一度も再会できないで終わる人生だったより、結局は幸せだったのだと思う。何もない人生よりは、不幸な人生の方がいいという人生哲学だ。
パドドゥの中盤から、オネーギンは往時の輝きを取り戻したかのような、切り裂かんばかりの鮮やかで痛切なアントルラッセを見せる。背後からタチヤーナを包み込み、愛おしみ、求めて止まなかった人生ただ一つの宝物を手に入れようとする。包み込みその指先からも、痛ましいまでの想いが零れ落ちている。しかも、前半では、タチヤーナの身体を胸で受け止めて、手では触れていないというのだから、あまりにも痛切だ。
アマトリアンのタチヤーナはまだ年齢的には若い。優しい夫にも愛されていることを感じて日々を暮らしている。だが、その若さに似合わず、心が先に年老いてしまったようだ。何かを封じ込めて生きている、そんな頑なさがある。オネーギンへの恋を葬り去って生きて来た彼女には、表面上の幸せさの間から漏れ出るかすかな不幸が見える。
そしてその頑なさが、オネーギンの出現、彼の手紙、そして彼による求愛で少しずつ溶けてゆく。
だが、タチヤーナはオネーギンによって心が熔かされて行くことに怖れを抱く。鏡のパドドゥのときの動きにも似た、夢の中の奔放な少女が顔を出したことに。そして、タチヤーナはオネーギンへの想いを永遠に葬り去ることを選ぶ。自分の感情に蓋をするように、涙を流しながらも厳しい身振りによる激しい拒絶。かつてのことを繰り返すように、タチヤーナは彼の顔をみないようにして、手紙をびりびりに破って顔を背け、紙くずとなった手紙を彼に押し付ける。あんなにもクールで澄ました伊達男だったオネーギンは、プライドをかなぐり捨てて、全てを投げ出すように彼女の足元にすがる。が、受け入れられないことが解ると、すばやく走り去る。彼の去ったあと、その軌跡を追うように部屋をふらふらさ迷った揚句、激情をぶつけるように激しく慟哭するタチヤーナ。だが、アマトリアンの悲しみ、苦しみの表情があまりにもストレートに出過ぎていたように思えた。若いダンサーだからだろうか。タチヤーナの苦悩はそんなに簡単に顔の表情に出せるものではないと思うのだ。演技しすぎてはいけない、役になりきろうとしてはならない、役そのものを生きなければならないのが、「オネーギン」の難しいところ。
その点、真の意味で"役を生きていた”のがイリだと感じられた。顔の表情ではなく、一挙一頭足で、オネーギンの自己憐憫、鼻持ちならなさ、慄き、熱情、後悔、絶望が手に取るように感じられる。バレエでそれを感じられることはなかなかない。
NBSのサイトでこの動画が観られるのも後わずかか~。
http://www.nbs.or.jp/blog/0811_stuttgart/cat54/
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