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2008/12/03

ボリショイ・バレエ芸術監督 アレクセイ・ラトマンスキーAlexei Ratmansky「明るい小川」特別講演会 その1

映像も色々と観られたし、かなりぶっちゃけ話もあってとても面白かったです。

1.今までを振り返って

Q:なぜサンクトペテルブルグ出身なのに、モスクワ・バレエ学校に行くことになったのでしょうか?キエフ・バレエを選んだ理由は?

A.私の父はキエフ生まれで、母がサンクトペテルブルグ生まれなのです。ロシアの中で最高峰のバレエ学校はモスクワという母の考えで、ボリショイに行くことにしました。

キエフ・バレエを選んだのは、当時家族がキエフに住んでいたからです。本当はモスクワに残りたかったのですが、私は優等生ではなかったので残れなかったのです。しかしキエフも素晴らしいバレエ団で、そのレベルには大変満足しています。

Q.あなたはキエフ・バレエでブルノンヴィルの「ラ・シルフィード」を踊って、その後デンマーク・ロイヤル・バレエに移籍されました。ラ・シルフィードを踊ったことは、デンマークに移られたこととは関係がありますか?

A.デンマーク・ロイヤル・バレエで踊ったことは大変誇りに思っていますが、ロイヤル・ウィニペグ・バレエ、それからデンマークロイヤルに移籍したことについては、色々と理由があるので一概に総括はできません。私はキエフを発ってロイヤル・ウィニペグに移籍した時に色々なことをやってみたいと思いました。まだ振り付けについては未熟だったので、もっと学びたい、そのためにはカナダに行って学ぶのが良いと思って移籍したのです。モスクワ・バレエ学校で学んだことは最高峰の教育を受けたことですが、実際に踊っていくうちに自分のキャリアを積んでいく上でもっと学ばなければならないことがあると思いました。

Q.最初の振付作品はどのようなものでしたか?

A.モスクワ・バレエ学校に在籍していた15歳の時のもので、「魔法使いの弟子」というタイトルでした。お祭りがあって、先生方でみんなでバレエを作ろうということでしたが、実際には寮の階段や廊下で振付を行いました。10分くらいの小品です。
次の作品はキエフ時代に創りました。ウクライナのコンクールやモスクワのコンクールのために作ったもので、舞台に立ちながら振付も担当しました。その後キエフバレエのレパートリーとなるように手直しを加えました。

Q.振付家で憧れの人というのはいますか?

A.難しい質問です。私の中で、本能的に湧き出るものは、音楽によって啓蒙されるものであり、誰か振付家というより、音楽そのものから振付のイデーを頂いている。学校時代に、2時間の「音楽の歴史と理論」と言うのがあったが、それがとても楽しくて、大好きな授業だった。音楽から湧き出るものを私は楽しんでいました。

Q.あなたの作品は、ショスタコーヴィチやプロコフィエフに振付けたものが多いですが、20世紀のロシア音楽に興味があるのですか?

A.ショスタコーヴィチの音楽はロシア人にとって多くの意味を持っている。彼は20世紀のロシアの歴史を描いている。言葉がなくても心をつかんで離さない音楽であって、私にとってはとても大きな存在の音楽家です。心の内容を表現するのには、音楽が最も適していると思います。ショスタコーヴィチは革命を生き抜いて、20世紀を生き抜いてロシア氏を描きました。私にとっては人生の光であり、ロシア人と共にあった音楽家だと思います。

ショスタコーヴィチの音楽については、実際いろんな評価がありました。彼のシンフォニーはどれもがわかりやすいものではなく、暗いとか政治的という人もいます。彼は音楽界の革命児というよりは破壊者であり、グロテスクさや滑稽さを持ち込んでいます。「明るい小川」の中にも、ショスタコーヴィチらしさはあります。

私の振付作品は全部で40~45作品ありますが、うち8作品は大作です。全幕作品の最初の作品は「くるみ割り人形」です。クラシックバレエにしても革新的な振付をすることができるので、作り変えは面白いです。「くるみ割り人形」はヴァレリー・ゲルギエフ、そしてシェーミキンに呼ばれてマリインスキーに創りに行きました。そのときにはこのような大家に招かれて光栄に思いました。私にとってゲルギエフもシェーミキンも大スターなので、リハーサルもたくさん行ったのですが、シェーミキンが自分自身のアイディアのものを作りたいということがあり、私が本当に取り入れたいものは却下されてしまいました。自分勝手と取られてしまったので、とても難しい面がありました。「ジゼル」にしても、他の振付家から変えて欲しいと言われたり、いろいろなエピソードがあります。

デンマークロイヤルバレエでも、振付のために招聘された時に色々なドラマがありました。デンマークロイヤルに依頼された「くるみ割り人形」が完成に至らなかったのです。舞台芸術や衣装は整っていたのですが、途中で私はペテルブルクに帰ってしまい、周り中がパニックに陥りましたので、もう一度作り直すことになりました。その1ヵ月後に初演が控えていたのですが、完成した作品はそれから5年間、デンマークロイヤルでレパートリーとして上演されました。

この「くるみ割り人形」は、1915年のイメージがわくような、戦争の時代を表現するアンサンブルを用意し、破天荒なものになりました。雪娘も意地悪で、策略家で、くるみ割り人形を凍らせようとする役割にしました。

もう一つ、デンマークロイヤルでは、子供たちのための総合教育施設で、くるみを上演する機会を与えてくれました。私の中でそれはとてもよい思い出です。実際の観客が、子供たちで、彼らのおじいちゃんおばあちゃんなど家族が見てくれました。大人向けではなく、子供たち向けに作品を作ることができたので、嬉しかったです。この演目では、性格的なものを演技できる人を招聘したいと思い、アーティストたちはわずかな表情やわずかな震えを表現できる人を使いました。

このデンマークでの実験的な試みを行ったのも、「明るい小川」の作品の中に反映されています。性格描写やパントマイムについて、この経験によって学ぶことができました。もともとバレエの中にはパントマイムはあったのですが、1950年代、ソビエトの中でそれは失われてきました。しかし、マイムは復活し、私も「海賊」や「明るい小川」の中で用いました。「白鳥の湖」にはそのようなマイム表現はありませんが、現在のボリショイの「ドン・キホーテ」は87年ごろから使われている振付の中ではマイムもあります。また、私の作品の中には、ニーナ・アナニアシヴィリが上演した「夢の中の日本」という斬新なものがあって、ここにもマイムは登場します。

Q.ボリショイ・バレエの芸術監督からABTのレジデント・コリオグラファーになりますが、今後の予定について教えてください。

A。私自身が、今後どのようになっていくのか知りたいと思います。今までの自分の経歴を見ていても、場所を変えていっているというのが判ります。7,8年間同じところにいるのは楽ですが、同じところにとどまってはいけない、前進しなければならないと思います。今度の移籍はそのようなステップの一つです。

モスクワの学校で学んだ時も、そしてキエフから離れたことも、今の自分を創っています。バレエと言うのはたくさんの可能性を秘めた芸術なのだと思います。来年の予定としては、1月1日が初日で、1930年に作曲されたプロコフィエフの作品を初めて上演します。全幕なので楽な仕事ではありません。様々な音楽、インスピレーションを与える音楽から作品を作っていきたいと思います。それからショスタコーヴィチの「明るい小川」の再演があります。また、「くるみ割り人形」「シンデレラ」の再演もあります。その他の古典をベースにした作品を振付ける予定はありません。

その2に続きます。

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