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2008/12/02

アーカイヴ:シュツットガルト・バレエ「オネーギン」2005年11月08日

パソコンの中をひっくり返していたら、3年前のシュツットガルト・バレエの来日公演、マニュエル・ルグリが客演した「オネーギン」の感想が出てきました。自分のWebサイトに掲載したものです。当時、初めてこの作品を見たときにはどんな印象を持って、今回どういう風に感じたのか、比較のために再掲しますね。読み返すとちょっと恥ずかしい気がしなくもありませんが…。

2005年11月08日

シュツットガルト・バレエ「オネーギン」
Stuttgart Ballet Onegin by John Cranko
November 8th, 2005
Tokyo

オネーギン:マニュエル・ルグリ
レンスキー:ミハイル・カニスキン
タチヤーナ:マリア・アイシュヴァルト
オリガ:エレーナ・テンチコワ
グレーミン公爵:イヴァン・ジル・オルテガ


怪我から回復したばかりのルグリがシュツットガルトに客演ということで一抹の不安を抱えながら観ることに。ルグリが舞台上に登場するまでドキドキしてしまった。すぐさま、それが杞憂であることがわかった。

ルグリが登場した時、まず、黒いタイツに包まれた脚があまりにもほっそりしているのに驚いた。相も変わらず優美な佇まい。しかし、明らかに周囲から浮いていて、エレガントでありながら黒い染みのようにも見える。

ルグリが演じているオネーギンは都会出身の貴族で、のんびりとした田舎町では浮いている。シュツットガルト・バレエの面々の中で、一人別のカンパニーに所属しているルグリが異質の存在であることと重ね合わさって、不思議な効果が上がっていた。しかし、周りと馴染んでいない、都会からきた洗練された大人の男性に、純真な少女タチアーナはのぼせ上がってしまう。

1幕のオネーギンは氷のように冷たい男だ。タチヤーナが夢中になっている恋愛小説をちらりと見ては、あからさまに馬鹿にする。ここでのルグリはこれ以上は不可能というほどまっすぐに突き刺さったような姿勢の美しさ。威厳と誇り高さがあって、エレガントなのに少々エキセントリックに見受けられるほど、ピリピリに張り詰めている。タチヤーナの妹オリガの婚約者レンスキーの友人であるという設定なのだが、友達と言うよりちょっとコワイ先輩のようにも見受けられる。オネーギンがこんな感じなので、レンスキーのチャーミングさがここでは際立っている。

この舞台を見て一番感じたのは、もちろんルグリというダンサーは指先まで優美で演技力も申し分ないが、タチアーナ役のマリア・アイシュヴァルトが完璧といっていいほど素晴らしいことである。

活発で少々軽薄に思える妹オリガや、ほかの可愛らしい娘たちとは対照的で、タチヤーナは晩生で本の虫。夢の中で暮らしているような、恋に恋するような少女。本を抱えた姿で舞台上に姿を現した瞬間に、彼女の人物像は観る者の頭にしっかりと伝わる。知識欲に目をキラキラさせている利発な女の子だけど、田舎育ちで世の中のことは何も知らないし、ましてや恋なんて。しかし、凛とした強い目力のタチヤーナ(=マリア)がすでにこの時点で、大人になれば素晴らしい女性に成長するであろうことは見て取れる。そんな彼女の潜在的な魅力に気がつかなかったオネーギンは愚かだったということだ。

一番最初のソロでのルグリは、回転がやや不安定だったのでドキッとしたが、その後はいつもの通り完璧でエレガンスあふれる踊りを見せてくれた。しかし、その感情が抜け落ちたような回転や跳躍の中には、タチアーナのことなど歯牙にもかけない、心ここにあらずといった様子がありありと伺える。

さて「オネーギン」というバレエの素晴らしさは2つのPDDに集約されていると思う。「鏡のPDD」と「手紙のPDD」だ。
レイフ・ファインズが主演した映画も、タチアーナが手紙を書くシーンの演出に力を入れている。しかし手紙を書くところをバレエで視覚的に表現をするのは非常に難しい。そこで、クランコならではの、心理状態を踊りで表現させるドラマティック・バレエの本懐が発揮されるのだ。

オネーギンに恋をしたタチヤーナは、彼に手紙をしたためる。手紙を書きながら眠りに落ちた彼女の夢。鏡を覗き込んだタチヤーナ(鏡に映った彼女の姿を表現するために、同じ姿をしたダンサーが同じ動きを見せる)の前に、鏡の中からオネーギンが現れる。タチヤーナの恋心を象徴させるかのように、タチヤーナとオネーギンは情熱的に踊るのだ。

知性のほうが勝っていて、恋愛には晩生なタチヤーナ。その彼女が、眠っていた熱情を呼び覚ましたのか、夢の中では火傷しそうなほどの熱い想いを全身で表し、彼の胸の中に飛び込んでゆく。高揚した心を表現するように、高々とオネーギンにリフトされる。オネーギンも夢の中ではタチアーナを優しく受け止める。タチアーナを振り回すかのような高速回転を伴ったリフトなど、超絶技巧を尽くしたような、幻想的で美しくしかも疾走缶のあるシーンだ。幸福感に満たされてペンを置くタチヤーナ。

しかし2幕は、残酷な展開に終始する。熱い想いをこめて書いた手紙を、オネーギンはタチヤーナの目の前で(しかも彼女の背中に回りこみ、彼女の手のひらの上で!)破り捨てるのだ。泣き崩れるタチヤーナ。ますますオネーギンは冷たく、斜に構えた嫌な男になっている。宴をよそに、一人黙々とつまらなそうにカードで遊ぶオネーギン。
ルグリが演じると、そこまで嫌な人には見えないのだが、冷たい感じはよく出ていた。反面、育ちがよく見えるため、屈折したところはあまり出ていなかったような。

自分はこんな田舎でくすぶっていて、田舎娘に恋心を寄せられるようなつまらない人間ではない、というプライドと苛立ちが見え隠れする。ついには友人レンスキーの婚約者であるオリガにちょっかいを出してしまう。ちょっと考えの足りないオリガも、嬉しそうにオネーギンと踊ってしまうから事態は悪化。レンスキーはオネーギンに決闘を申し入れる。白い手袋で顔をぴしゃぴしゃとはたかれるルグリのややオーバーなリアクションがちょっと可笑しい。

オネーギンは嫌な男だが、品格のある人間ではある。本当に悪い奴だったら、一方的に熱を上げて来ている小娘を弄ぶことだってできたわけだ。しかしあくまでも紳士である彼はそれをしないで、屈折した思いはあるものの、自分なりの行動規範に沿ってに行動しているのだから。

決闘のシーン。この作品がタチヤーナの目線で描かれているのは、この場の演出でもわかる。なんとか決闘を止めようとするタチヤーナとオリガが最初に登場するからだ。そして自己憐憫とナルシズムを表現したレンスキーのソロがあり(レンスキーという男は、オネーギンとは対照的であまりにも普通で屈折がない)、全身を黒に包んだ死神のようなオネーギンの登場だ。決闘の演出も淡々としており、舞台の後方で背景のように行われている。決闘そのものよりも、それに対するタチヤーナとオリガのリアクションを描くことを主眼としている演出。レンスキーが倒れ、深深と頭を下げたオネーギンは自分のやってしまったこと、親友を殺してしまったという取り返しのつかないことをしてしまったことにおののく。初めて、彼の人間らしさが露になった場面だ。ここでのルグリの演技には惚れ惚れとした。人間の弱さ、後悔、絶望、そういったネガティヴな要素を美しく演じられるダンサーはそうそういない。

そして、数年後(原作では2年後)−

1幕で屈託なく踊っていた若者たちも大人になり、落ち着いた色彩の衣裳に髭を蓄え、グレーミン公爵の邸宅で群舞を踊っている。タチヤーナは先ほどの素朴な少女姿とは打って変わり、成熟した大人の女性の色香を身につけている。鮮やかなピンクの衣裳が艶やかだが、あくまでも品格を湛えている。マリア・アイシュヴァルトが驚くべき変貌振りを見せている。彼女の傍らにいるのは、2幕で彼女に好意を寄せていたグレーミン公爵。若くはないが長身でハンサム、魅力的で優しそうな大人の男性である。ふたりのPDDで、彼らが落ち着いた穏やかな結婚生活を送っていることが伺える。

そこへ登場したオネーギンが、一人でソロを踊る。髪に白いものが混じり、実際の年齢以上に年取っており精彩を欠いている。彼の中で2年以上の時間が経過したことは明らかだ。タチヤーナの求愛を拒絶しさすらった日々は、彼の空虚な心を埋めることはできなかった。美しく年齢を重ねることはできなかった。そのことを佇まいだけで表現できるルグリは大した役者だ。
美しく花開いたタチアーナに目が吸い寄せられている。彼女を拒んでから今までの月日、その時間をいかに過ごしたかの違いが今の二人の姿に如実に現れている。人妻となった彼女は手の届かない存在なのだけど、でも恋心は抑えられない。

タチヤーナの寝室を訪れたオネーギンは、今まで散々固執してきたプライドを捨て彼女の足元に這いつくばり、許しを乞い、愛を乞う。今までの高慢さを捨て去り、初めて本当の愛に生きようとしている彼は、手紙をタチアーナに渡す。1幕と立場が逆転しているのだ。彼のあまりの懇願ぶりに動揺するタチアーナ。二人の心の揺らぎ、葛藤を精緻に綴るのが、ラストを飾るに相応しい「手紙のPDD」。ここでも超絶技巧を凝らしたリフトや回転で、あまりにも激しい情念を語ることに成功している。タチアーナの足元にすがりついては懇願し、拒まれ、でも再びすがりつかずにはいられないオネーギン。タチアーナの心にも隙が見える。ここまで私のことを思ってくれるなら…と身を一瞬預ける。

でも、オネーギンの変節はあまりにも遅すぎたのだ。未練を断ち切るように彼を拒むと、1幕の反復のように手紙をびりびりと破り捨て、扉を指して部屋から立ち去るようにきっぱりと命じるタチヤーナ。絶望し走り去るルグリの後ろ姿、その背中に叶えられなかった生涯の愛の亡骸が見える。彼が去ったあとのタチヤーナ(=マリア)の、あふれ出る感情を必死に抑えようとしても抑えられずに苦悩の末慟哭しすべての想いを露にした表情。この泣き崩れた表情は観た者すべてにも、過去の叶えられなかった愛の記憶を呼び覚まし、滂沱の涙を流させる忘れ難いもの。そしてこの作品が、タチアーナという女性を主人公としながらも、彼女の視点を通して「オネーギン」という複雑なキャラクターを描いたものであるということを印象付けるラストであった。

マリア・アイシュヴァルトは本当に凄い。カーテンコールでも、ルグリも、マリアも、素に戻れないまま立ち尽くしていた

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