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2006年6月

2006/06/28

6/17マチネ ABT「ジゼル」パロマ・ヘレーラ、マルセロ・ゴメス

昨日あれだけ素晴らしいボッカのアルブレヒト&シオマラのジゼルを見てしまったのでどうしよう、と思ったのだけど、大好きなマルセロがアルブレヒトなのはこれまた嬉しい。さらに、ヒラリオンはヘススなのだ。去年彼のヒラリオンは大変評判が良かったので、とても楽しみにしていた。メーンキャスト4人全員がラテン系、ウィルフリードやドゥ・ウィリの片割れまでラテンというキャスティング。

パロマのジゼルは、イノセントな村娘という雰囲気は出ているし、1幕の踊りも軽やかで調子はよさそうだった。ただ、ソロのところは、ポアントで片足立って前アティチュードのところなど脚は綺麗なのだが、シオマラに比べて上半身が雑な部分が見受けられた。狂乱のシーンの演技がえらく地味というか内省的である。昨日のシオマラのジゼルは、とても小柄で可愛いのに裏切りを知ってからの豹変振りがすごかった。それに対してパロマは一人で悲しみをこらえているような、そんな役作りで少々物足りない感じ。

一方、マルセロのアルブレヒトは、とても優しげで、ジゼルをとても可愛く思っている。彼女に向けて投げキッスを送ったのは、マルセロだけだったと思う。爽やかで屈託のない笑顔。パロマとマルセロは以前からよくパートナーシップを築いているので、バランスはとてもよく、自然に素朴で微笑ましい普通の恋人同士に見える。マルセロはあくまでも踊りはノーブルであるところに、貴族らしさの片鱗は見えるが、ジゼルのことは遊びではなく本当に愛していたように見受けられた。ジゼルの狂乱のシーンで一番おろおろとうろたえていたのは彼だった。ボッカやアンヘルはこんな事態を招いてしまった自分を責めていたけれども、マルセロはジゼルと同じ苦しみを引き受けていた。感情の出し方はとてもストレートで、ジゼルが死んだ時に遺体に取りすがって泣く姿も一番自然でしっくりきた。ただパロマがシオマラのような、可哀想な演技を見せていないので前日のようには泣けなかったのだが。

ペザント・パ・ド・ドゥはアンナ・リセイカとジャレド・マシューズ。金髪美青年のジャレドがペザントを踊るのは意外。ソロの着地のところでちょっと失敗。昨日のサシャのほうが上手だった。

ヘススのヒラリオン。いやあ、濃い。前日のゲンナディが熱い男でやたらカッコよかったわけだが、ヘススの演技は暑苦しいほど。ねっとりとした視線でジゼルの家を見つめ、ジゼルの玄関に置いた花束がそのままになっていると大げさなまでに悔しがる。アルブレヒトとジゼルの間に割って入るときも、何で俺じゃなくてこんな男がいいんだよ!って食って掛かるイメージ。ゲンナディの時とはまた別の方法で、ジゼルに熱い思いを抱えている男なのだ。ジゼルが死んで、アルブレヒトが剣で斬りつけようとしたときに身を投げ出す姿は、堂々としてかっこいい、というよりはジゼルが死んでしまってもう生きていても仕方ないから殺してくれ、と言っているようだった。(その割には2幕でかなりしつこくミルタに命乞いをするわけだが)

さて、2幕。昨日に続きヒラリオンがジゼルの粗末な墓標を作る。ただの木の枝2本を紐で十字架にしただけというものだ。でも、ヒラリオンは心底ジゼルの死を悼んでいる様子。ミルタ登場。今日のミルタはカルメン・コレーラ。昨日のジリアン・マーフィと比べると上半身が硬い。顔はアンヘルそっくりというかアンヘルが女装したみたいだし(笑)。でも長身でほっそりしていてプロポーションはいいし、何よりも威厳がある。ドゥ・ウィリは二人とも良いが特にコール・ドのジョンジン・ファンが柔らかくて美しかった。

マルセロは長身ハンサム王子なので、マント姿に百合の花の憂い姿が似合うこと。加えて演技もなかなか達者で、ジゼルが通り抜けていった時も、今確かに触れたのはジゼルだったのだ、これは夢でも幻でもないんだと、あくまでもさりげなく自問自答をしていた。リフトは非常に上手で、ふわりと、まるでまったく体重がないかのようにジゼルを平行に、180センチ以上の身長からさらに高いところまで持ち上げていたし、キープ時間が長く、ジゼルを置く時もとても優しい。が、なんといっても驚愕したのは、ミルタに無理矢理踊らされるヴァリエーション。コーダでは、アントルシャ・シスをなんと10回以上も連続して、大変な高さを保って正確に行い、足先がとても美しかった。今回、アルブレヒトは他にフリオ・ボッカとアンヘル・コレーラしか観ていないけど、このアントルシャ・シスの連続技を見せたのはマルセロだけだった。踊らされて苦しげな演技も自然だったと思う。ブリゼも高く脚が上がっていて、美しいバットゥリーの軌跡を描いていた。ただ、倒れこみ方はフリオの方が上手だった(フリオの場合には、体力的な問題で実際にすごく苦しかったのではないかと思われるが)。

パロマ演じる、ウィリとなったジゼル。生身っぽさは消えていて、精霊らしさがよく出ていたと思う。ポール・ド・ブラは美しい。登場してアラベスクのままア・テールで高速回転するところも正確だったが、速度は遅めだったのでミルタに操られている感が弱い(ソワレのヴィシニョーワの速度が驚異的だったとも言える)。パロマは、1幕の人間だった頃のジゼルの部分を感じさせる、健気な娘そのままを演じていた。踊りそのものは、去年の不調を脱したようで丁寧かつ柔らかさもあるけれども、昨日のシオマラの超絶技巧よりは少し落ちる。それでも、マルセロとのパートナーシップが良いので、組み合わせとして見れば不満はない。ただ、パロマのジゼルをまた観たいかというと、パートナー次第としか答えようがない。

ヘススのヒラリオンは2幕で本領を発揮していた。前の日のゲンナディが素晴らしかったので、やや心配だったのだが技術的にも問題なし、というかしばらく観ない間に上手になった?ウィリたちに踊らされるところではシェネが高速でしかも軸がぶれず美しい。ミルタに命乞いをするところはものすごく必死で、得意の背中を深く反らすポーズを取りかわいそうになってしまうし、斜め一列に並んだウィリ達の横をグラン・ジュッテで進むところは、ふわり、ふわりと高く柔らかく上昇していた。無理矢理踊らされているのにここまで綺麗に踊らなくてもいいだろう、と思うほど。見せ場が短いのがもったいないほどの熱演だった。ただゲンナディの方がかっこいいけどね。

ジゼルが墓の中に消えていく前の、永遠の愛を誓うマイムはなかなか良かった。ちゃんとジゼルとアルブレヒトの心がひとつになったのが見えたからだ。そしてジゼルから受け取った花を墓に捧げたアルブレヒトは、感慨にふけりながらも、新しい人生を歩みだせる希望を残した表情で、幕。さすがに、前日のフリオのように舞台袖に歩き去ってしまうなんてことはしなかった。マルセロのノーブルさとまっすぐな純情、二人のパートナーシップが堪能できた良い舞台だったと思う。インパクトの面では前日のボッカ・レイエス、ソワレのコレーラ・ヴィシニョーワよりは弱いと思うけど、「ジゼル」という作品らしいジゼルだったのではないだろうか。

マルセロのアルブレヒトはパートナーリングや足技、演技の達者さがあり、予想以上に良いので、ぜひ日本でもゲストとして踊って欲しいと思った。マラーホフが年齢的に考えてあと数年、だと考えると、彼の後継者としてちょうど良いのでは?

Giselle: Paloma Herrera
Albrecht: Marcelo Gomes
Hilarion: Jesus Pastor
Wilfried: Julio Bragado-Young
Bathilde: Maria Bystrova
Peasant Pas de Duex: Anna Liceica, Jared Matthews
Myrta: Carmen Corella
Moyna: Maria Riccetto
Zulma:: Zhong-Jing Fang

2006/06/24

ABT鑑賞の日々終了そしてフリオ・ボッカ

終わりました。明日の昼にNYを発って帰国します。

毎年、出発の時には今年がMET行き最後にしようと思うのですが、それでも終わったころにはまた来年も行きたいなと思ってしまいます。今回はジゼル3回にマノン6回。加えてNYCBを1回観て8日間に10公演観ました。昼間は美術館に行ったり現地在住の友人とご飯を食べたり、オープンクラスを受けたりと活動していたので、最終日の今日はさすがにぐったりでした。

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それぞれの公演については帰国後書くとして、やはり白眉はフリオ・ボッカの引退公演の「マノン」。まだ全然ちゃんとした感想がかけません。ボッカの最後の嘆き顔が脳裏を離れません。音楽がぐるぐると頭の中を回っています。帰りの飛行機の中で考えます。最後の3回の公演を見られて幸せ、でも同時にぽっかりと穴が開いたような、大きな喪失感を抱えています。

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6月22日の公演は、ただただ素晴しかったです。最後の力を振り絞った入魂の演技でした。そしてやはり、ボッカとフェリ、この二人にしか出せない魔法がありました。ボッカの動きってなんてきれいなんでしょう。そして、溢れ出る優しさ。捨てられた子犬のような目。背中で語る演技。やわらかく美しい、正確な動き。身体の動きで語る演技でした。フェリも視線の使い方が凄かったです。マノンという人物そのものでした。完璧でした。寝室のPDDでも、いつまでも拍手は鳴り止まず次のシーンまで続きました。客席には、綺羅星のようなプリンシパルたちが盛装して、それはそれは目の保養になりました。
最後は現役プリンシパルほぼ全員と、スーザン・ジャフィ、シリル・イエーガー、マーティン・ヴァン・ハメルなど過去のプリンシパルなども壇上に登場し、花火が光り花が降り注ぎました。フリオはマルセロ・ゴメスとデヴィッド・ホールバーグに担がれていました。アルゼンチン・ビールを飲み、客席から投げ入れられたアルゼンチンの旗をまとい、最後はアンダーウェア姿でカーテンコールに登場しました。満ち足りた素敵な表情で、感謝を気持ちを総立ちの観客に向けていました。終わってしまった。。。もちろん沼地では号泣だったけど、月曜日の方が大泣きしました。木曜は意外と落ち着いてみられました。おそらく木曜のほうが演技を抑えていたのではと思います。

一夜明けてまだ興奮冷めやらずぼーとしています。魂が抜けた状態です。ボッカの踊りがもう見られないかと思うと、死にたくなりそうです。しかもフェリにはもう、これ以上のパートナーは現れないかと思うと。フェリはアンヘルやテューズリー、ホセ・カレーニョ。マッシモ・ムッルとは踊っているけど、でもボッカとのパートナーシップを超えるものは絶対に無いでしょう。この二人のパートナーシップを越えるものが今後出てくるのでしょうか。

バレエにハマるきっかけを与えてくれたのが、99年のABTの来日公演でのボッカ&フェリの「ロミオとジュリエット」でした。今は、ただただ、本当にありがとう、ボッカ。あなたに会えてよかった。ゆっくり休んで、大好きなビール飲んでね。

そして今回のNY行きをサポートしてくださった友達のみんなには、心からのありがとうを言わせてくださいね。

Ponさんによる素晴らしいレポートがここにあります。ぜひご一読を。

2006/06/17

6/16ABT「ジゼル」シオマラ・レイエス、フリオ・ボッカ、ジリアン・マーフィ

今回のABT祭り第一弾はシオマラ・レイエス&フリオ・ボッカの「ジゼル」。なぜ金曜日からNYに行くことにしたかってそれはボッカの最後のアルブレヒトを観るためである。

さすがにボッカ最後のアルブレヒトということで大盛況だ。隣に座っているおじいさんが話しかけてきたので色々と話す。彼はそうとうABTに通っているらしい。夜8時からの公演と遅いのに子供が多く、立ち上がったりしゃべったりとかなり躾が悪い。

時差ぼけも治っていない状態で、「ジゼル」なんか見たら寝てしまうんじゃないかと不安だったけど、それは杞憂だった。すばらしいステージを見ることが出来て大満足。1幕のジゼルの死で泣いて、ラストではもうどうなっちゃうんじゃないかしらと号泣。もう彼が見られなくなるという現実に耐えられなくなりそうになる。

シオマラ・レイエスの1幕のジゼルはとてもかわいらしい。身長160センチもないほど小柄で童顔、純情で素朴な村娘にぴったり。アルブレヒトと一緒にいるのが幸せで幸せで仕方ない。反面、テクニックは強靭である。ソロの片足ポアントでもう片方の足はアティチュードにして前に跳ねるように進むところはびくともしない安定感だし、ピケヤシェネなど回転も非常に正確で美しい。踊ることが大好きな快活で明るい娘なだけに、そんな彼女が正気を失って死んでしまうのがかわいそうで仕方ない。ただし、発狂シーンは好き嫌いが分かれるかもしれない。それまでの可愛くて純朴なジゼルが一転して髪を振り乱し非常に険しい表情を見せてしまうから、ショッキングであった。こんな顔をするジゼルは見たことが無い。

そしてボッカのアルブレヒト。濃い演技には定評のある彼だけど、今回もそれが健在。最初からとても熱いアルブレヒトだった。恋敵ヒラリオンのゲンナディ・サヴリエフも濃い演技だけに、感情のぶつかり合いは激しかった。こんなにジゼルに対してラブラブ光線出しまくりのアルブレヒトというのも珍しいのではないか?とっても優しくて包容力はあって、でも熱いハートの持ち主。

それだけに、ヒラリオンが彼の正体を明かし、婚約者のバチルドが登場し、反射的に彼女の手にキスをしてしまってジゼルが発狂したときの彼の反応には、胸がつぶれる思いがした。なんということをしてしまったのだろう、悪いのは自分だ、自分だけを責めてくれと、ジゼルの苦しみそして村人たちの憎しみを黙々と一身に背負っているように見えた。そしてジゼルの姿はとても直視できない。そんなことをする資格は自分には無いと。彼女の死にはひどく動転し、悲しみのまま彼まで死んでしまうのではないかとすら伺えた。ウィルフリードにマントを渡されるとすごいスピードで走り去っていく。涙が出たのは、ジゼルが、というよりアルブレヒトが哀れでどうしようもなかったから。

ゲンナディ・サヴリエフのヒラリオンも熱い男だ。問題があるとしたら、ヒラリオンのくせに男前でかっこ良すぎることだけかもしれない。衣装も結構貴族っぽいし(森番であれは無いだろう)。彼もアルブレヒト同様、ジゼルに夢中で熱い思いを臆面もなく出している。だから、玄関の前に置いた花束がそのままになっているのを見て思いっきり落胆するのだけど、でもめげない。アルブレヒトの正体を明かしたのもただただ彼女を手に入れたいだけという激しい恋心からであり、証拠の剣を見せるときも非常に荒々しい。その剣を手にアルブレヒトが襲い掛かるときは、殺せるものなら殺してみろ、と堂々としていて男らしい。1幕で踊るシーンが無いのがもったいないのだが、その分2幕で力量を発揮してくれる。

1幕の最初にいきなり本物の犬が二匹登場したのには驚いた!子供のエキストラあり。
ペザント・パ・ド・ドゥはサシャ・ラデツキーとマリア・リチェット。サシャはへたれだと思っていたら意外と良かった(=テクニックがしっかりしていた)のに驚いた。

2幕は、ジゼルの粗末な墓(木の枝でできた十字架のみ)をヒラリオンが立てるところから始まる。ヒラリオンは本当にジゼルを愛していたんだ、と思わせる演出。
ミルタはジリアン・マーフィ。とても威厳があって怖そうな女王。大柄なんだけどジェッテは精霊らしく軽やかだしアームスもやわらかい。大勢のウィリたちの間にいても、一目でリーダーだとわかる風格、誇り高さ、冷酷さがある。ドゥ・ウィリはさすがにソリストのアンナ・リセイカのほうが良かった。ABTのコール・ドは揃っていないことで定評があるが、やっぱり揃っていなかった。でも、足音などはほとんどしないし、揃っていないという前提の元で見れば、許せる範囲。
ミルタは花嫁のようなヴェールをかぶって登場する。ジリアンの美しいパ・ド・ブレとあいまって、この登場シーンの美しいことといったら。ウィリたちも最初の数人はヴェールをかぶって出てくる。花嫁になる前に死んでしまった彼女たちの思いが感じられる。

マントをつけて、貴族らしい装いのアルブレヒトがやってくる。1幕のボッカはあまり貴族には見えなかったけど、ここではさすがにノーブルだ。ジゼルの墓に百合の花を捧げたアルブレヒトのマントは、ウィルフリードが持って走り去る。

ゲンナディのヒラリオンは1幕ではほとんど踊るシーンがない分、ここでは凄かった。死に至るまで踊らせられるときのピルエットやシェネが超高速かつぶれが無くて美しい。ジュッテも高いし、命乞いは必死だ。いい男がこんなに一生懸命助けてくれと叫んでいるんだから助けてやれよ、と思うんだけどミルタは冷淡にも「死ね」。ゲンナディのようは上手で男前な人には、いずれアルブレヒトも踊ってもらいたいと思う。ヒラリオンではもったいない。

1幕のボッカももちろん良かったけど、ダンサーとして、そして演技者としての彼の圧倒的な素晴らしさは2幕に出ていた。キャリアの頂点で引退したいと彼は語っていたが、まさに今がその頂点なのだろう。とても熱い演技を見せる彼ではあるが、決して過剰になることもなく、その熱さが彼のアルブレヒト像からすると非常に自然なのである。彼の前に、ウィリとなったジゼルが現れる。彼に近づいてくるが、霊なので実態があるようでない。でも、彼は今通ったジゼルの感覚を指で感じ、すり抜けていく彼女を感じ、今触れたものはジゼルだったのか、と自問自答し、やっぱり確かにジゼルはいたと確認する。そして最後まで彼女を追い求め、感じ、自分の罪深さにおののきながら、許しを求める資格はないと思いつつも許しを請う。その愛の深さには、胸を深く揺さぶられた。苦しさのあまり胸を押さえる演技もわざとらしさは一切なく本当に胸が痛いように見える。

一方、踊り手としても、彼はすさまじい熱演を見せた。これが39歳の、一週間後には引退してしまうダンサーの踊りなのだろうか?ピルエットは最低5回は回っているしそれにさらに回転を付け加えていて美しい。空に突き刺さるようなジュテ・アントルラッセは高い。ミルタやウィリたちに無理やり踊らされているところは、本当に自分の意思に反して、何者かの凄まじい力で操られて死ぬまで踊らされていると思えるほどだ。踊らされた挙句に倒れこむところも、着地の形をキレイに整えようとした手加減、というのが一切見えず激しく落下し一瞬本当に死んでしまったかと思えた。

ボッカの凄絶な演技の前ではさすがに少しかすんで見えたシオマラのジゼルだが、彼女のジゼルも素晴らしかった。ウィリたちの前に立つと彼女がひときわ小柄なのがわかる。そんな小さな彼女が、圧倒的な強さを持っていて凄く怖いミルタにアルブレヒトを助けてと懇願するから、そのけなげさが伝わってきて切ない。その思いだけが生き残っているという感じで、それ以外のジゼルはすっかり霊となっていて、空気のように軽く浮遊感があって儚い。墓から呼び出されてミルタによって回転させられるところは完全に目を閉じていて、霊としての目覚めを象徴させているがとても早く回っているし、テクニックの強靭さは随所に発揮されている。パッセを速いスピードで繰り返す足先もとても正確だけど、上半身はその大変さを微塵も感じさせずに柔らかく美しく保ち、溶けてしまいそうで、人ならざるものであり続けている。

ジゼルが墓の中に消えていくところは、またとない強烈な印象を残した。最後に腕だけを残し、「わたしは永遠にあなたのもの」という人差し指と中指を伸ばした腕の先でくっつけるマイムを見せると、アルブレヒトも同じしぐさを返す。ジゼルの指先から百合の花を受け取ると、しばらく地面の上でそれを触り、次に何か別のものを足元で触っていた。席が前方過ぎてわかりづらかったのだけど、ボッカはバレエシューズを脱いでジゼルの墓の下に並べたのである。(カーテンコールのときに隣のおじいさんが、彼流のさよならの告げ方なんだよ、と言ってい)。タイツの足先で上手のほうに歩き去っていくフリオは、どこか晴れ晴れとした表情をしていた。これで彼のアルブレヒトは永遠に封印されることとなったが、歴史的な名演といってもいいほど。こんなに素晴らしいものを見せてくれて、本当に有難う。これが見られて幸せだった。私はジゼルと言う作品自体、実はそれほど好きではないが、これは永遠に胸の中に生き続けると思った。

カーテンコールはいつまでも続き、花があちこちからシャワーのように投げられた。本当にフリオのファンでいてよかった。彼の舞台も後2回...。

Giselle: Xiomara Reyes
Albrecht: Julio Bocca
Hilarion: Gennadi Saveliev
Wilfried: Carlos Lopez
Bathilde: Jennifer Alexander
Peasant Pas de Duex: Maria Richetto, Sascha Radetsky
Myrta: Gillian Murphy
Moyna: Anna Liceica
Zulma: Kristi Boone

追記:写真家Gene Schiavoneさんのサイトに、フリオ・ボッカが脱いだバレエシューズをジゼルのお墓に供える写真がアップされています。(プリマローズさん、情報ありがとうございます)
http://www.geneschiavone.com/gallery/Principal-Dancers

2006/06/16

行って来ます

今からNYに行ってまいります。
帰国は25日です。できれば現地からも更新できたらいいのですが、まだできるかどうか確証はないので。

不在につき、コメントやトラックバックは、いったん溜め込んでこちらで許可をしてから公開する仕様としました。不便をおかけしますがよろしくお願いいたします。

ではでは!

postscript:

I have arrived in New York. It is very hot here.
Sorry I can only write in English.

2006/06/15

「太陽」アレクサンドル・ソクーロフ監督作品

この映画、なんと昭和最大のスーパースター、あの昭和天皇が主人公。しかも、監督はロシアの巨匠ソクーロフで、天皇を演じるのはイッセー尾形。

友人がこの映画の権利を買ったものの、扱っている題材が題材なだけに、右よりのかたがたからの妨害も予想されるなど公開が危ぶまれていた。しばらくどうなったのかわからなかったのだが、ようやく8月に無事劇場公開が決まったというわけで、試写会に呼んでいただけた。

公開がまだ先の映画なので、詳しいことは書かない。とても面白い映画なので、ぜひ観ていただきたいと思う。


太平洋戦争末期。日本軍の敗色は濃厚で、閣僚たちも、本土決戦とか軍用犬を使った自爆作戦とかすごく悲壮な感じになっている。昭和天皇はこれ以上の戦いを望んでいない。時々防空壕から出て、唯一焼け残った研究室に行き白衣を着用して、平家蟹の標本を惚れ惚れと見ながらその美しさについて侍従に延々と語る。マッカーサーに呼び出された時にも、ナマズについて熱く語って呆れられるなど、昭和天皇は生物学マニアなのである。

昭和天皇を演じたイッセー尾形の演技が素晴らしい。私の記憶の中の昭和天皇はすでに老年となっていたわけだが、その記憶に残されたその姿にそっくりである。独特の口をもごもごとさせる癖、「あ、そう」という口癖。顔つき。彼は神である、ということになっていたのだけど、侍従たちに「私の体はキミと同じだ」といっては困らせる。人間ではなく神であるということになっているのだから、人間らしくあってはいけないってわけで、あまり表情や感情は表に出さない。しかしとても無邪気で愛すべき人物で、写真撮影のときに、チャップリンに似ていると思い込んだ米兵たちに「ヘイ、チャーリー」なんて無礼にも呼びかけられても、ニコニコとしていて、チャップリンのまねをしたりする愛嬌がある。そして、時折放たれるそこはかとないギャグ。あるときは侍従たちを相手にs、そしてあるときはマッカーサーを相手に。実際のところ、昭和天皇は実に人間的な人なのであった。

この天皇像を見ていると、マッカーサーがこの男は戦争犯罪人では断じていない、と判断したのがよくわかる。善なる人間が戦争を終わらせて、日本という国を救ったというところが描かれている。

マッカーサーに会いに行く時に、天皇はあまりにも悲惨な焼け野原と傷ついた人々を目にする。空襲の地獄絵図が夢に出てくるが、さすが海洋生物マニアらしく、戦闘機や焼夷弾は魚の姿をしている。この地獄をもたらしたのは誰なのか、自分ではないのか、と自問自答する。

昭和天皇が人間宣言をしようと決意をし、そして皇后に会うシーンが、淡々としていながら感動的だ。不器用に皇后(桃井かおりがこれまた好演)の胸に頭を埋める。
「私は神であることの運命を拒絶した」という彼の言葉への皇后の返事がまた、

「あ、そう」

である。素晴らしい。

ソクーロフ独特の、もやがかかったようなほの暗い映像が、美しい。そのもやのかかった暗闇の中に、月が大きく輝き、天皇陛下は神格を返上することを決意するところは、皮肉にも神々しい。「太陽」とはもちろん、天皇、そして神の比喩である。侍従たちの反対をよそに、「沈んでいる国民には、太陽が必要である」と天皇は、人々の前に姿をあらわすこと=米軍に撮影されることに同意するのだった。そして天文学者を呼んでは、極光(オーロラ)を見たいとダダをこねる。

実際のところ、どこまでが真実なのかはわからない。おそらく、多くの部分はソクーロフと脚本家のユーリ・アラボフが想像を働かせて創作したのではないかと思われる。しかし、昭和天皇を敬意を持って描いているし、このような善意の人間でも、運命と歴史のうねりに巻き込まれて激しく苦悩することもある、というところがよく描けていると思う。それだけに、人間宣言をすることで自由を獲得するくだりが感動を呼ぶのだった。

アート映画ではあるけれども、実のところとてもわかりやすく演出されているし、面白い作品だ。日本人としてこの映画は必見だと思う。8月5日より銀座シネパトスにて公開。

2006/06/12

「ナイロビの蜂」The Constant Gardener

社会問題の告発、サスペンスと娯楽性、そして愛についての話でもあるという3つの点をバランスよく置いた、とてもよくできた映画。

アフリカのナイロビに赴任した外交官のジャスティンは、まもなく、妻のテッサが死体となって発見されたという知らせを上司サンディから聞く。妻はボランティア活動に精を出していたが、彼女が死んで初めて、ジャスティンは彼女の本当の姿と、彼女が巻き込まれていた陰謀の存在に気が付く。妻の死の真相を探ろうとするジャスティンを待っていた運命とは...

ヒロインであるテッサは、この映画の最初で死んでしまっている。よって、この映画の中に登場する彼女は、すべて回想シーンで、ジャスティンの記憶の中の存在として登場している。彼の記憶の中での彼女は、若く情熱的で、奔放で輝いていて、そのほとばしる熱が自分をどこまで連れて行ってしまうのかわからなくなっているほどである。そして、記憶の中の彼女が、幻のように現れる彼女が、揺らめく映像の中で、ジャスティンを心の旅、そして陰謀の真相へと連れて行く。

新薬の人体実験がアフリカの貧しい人々相手に行われている事実を告発する活動を行っていたテッサ。彼女と行動をともにしていたのはケニア人の青年医師で、口さがない連中は彼女とその医師との関係を疑っていた。大胆な彼女は、外交官夫人という立場をわきまえずパーティで製薬会社の幹部たちを挑発するようなことをしていたのだ。物静かで庭いじりが趣味のジャスティンは、妻の活動や彼女に対する噂話には見て見ぬ振りをする。 彼女を疑う気持ちも少しだがあった。

うまい演出だ、と思ったのは、テッサの出産後のところ。テッサは黒人の赤ちゃんを抱いているのだ。一瞬、実はテッサの子供の父はジャスティンではなかったのか、と思わせるところが憎い。実際には、テッサは死産してしまい、彼女が抱いていたのは人体実験の犠牲となってしまった少女ワンザの子供だった。

テッサの死の真相を究明する旅は、彼女の足跡を追う旅だった。行く先々でジャスティンは彼女の姿を感じる。そして、妻のことを何もわかっていなかったのだという事実にも直面する。こういう苦悩する男性を演じさせたら、レイフ・ファインズは天下一品だ。テッサが彼に何も言わなかったのは、この陰謀に外交官である彼を巻き込みたくなかったから。それが、テッサの愛だった。

貧しい人々に対する医療援助の美名の元行われる行為が、実際には新薬の人体実験だった。薬の副作用で死んだ人々は最初から存在しなかったように扱われていたという戦慄すべき事実。使用期限が切れた有害な薬が援助物資として送られてくる。あまりにも安く粗末に扱われる命。理不尽な暴力。その中で、聖母のように人々や子供たちに慕われていたテッサ。青年医師の助けを借りていたとはいえ、たった一人で立ち向かおうとしていたのだった。

この映画では、子供の使われ方がとても上手だ。ワンザの弟は、アフリカの土になりたいと遺言を残していたテッサの葬式に、40キロの距離を歩いてやってきた。終盤、襲撃された村から一人の女の子を助けようと飛行機に乗せたジャスティン。規則でその子は連れていけないと言われ、ジャスティンは抵抗するが、その女の子は飛行機を自分の意志で降りて去っていく。切ない。映画の前半では、テッサはワンザの弟を車に乗せようとジャスティンを説得したのに、彼が「彼は連れて行けない」と拒否した。テッサの足跡を追ううちに、彼女の意思をを受け継ぎ変わっていったところをうまく見せている。

この映画の監督、フェルナンド・メイレレスはあの傑作「シティ・オブ・ゴッド」の監督だが、「シティ~」でのスラム街の躍動感は、手持ちカメラを多用した非常に迫力のある襲撃シーンに生かされている。

(ここからネタバレとなります)

結局、テッサを殺したのは誰だったのか。実はテッサに思いを寄せていた上司サンディ。援助施設で働き、テッサに人体実験のデータを提供した医師。明らかに「悪」として描かれている製薬会社や治験会社の幹部ではなく、一見彼女の味方に見え、彼女に行為を持っていた人たちが結果的に彼女を殺してしまったのだった。

それにしても、見事なのは、ラスト近く、テッサの終焉の地にて佇むジャスティンの姿と、彼に迫る刺客のカットの切り返し。ここで、ジャスティンは本当にテッサのことを理解し、彼女にめぐりあい、そして一緒になれたのである。そこに覆い被さるのが、ジャスティンの葬儀と弔辞を読むサンディという演出は鮮やかとしか言いようがない。一見悲劇的なラストに見せかけて、すがすがしいまでのカタルシスがある幕切れとなった。このシーンが、テッサとジャスティンの出会いのシーンと見事な対を成しているというのも巧い。

まさに娯楽性とサスペンス、社会性、そして愛の三つの要素が相乗効果をあげて作品性を高めたエンディングといえる。

唯一弱点といえるのは、原作(未読だが非常に複雑な内容らしい)のせいもあるのだろうけど、登場人物が多いために製薬会社、治験会社、政府といった陰謀に荷担した人たちの関係が非常にわかりづらく、見ている側がついていけなくなってしまったことである。

あと、テッサのキャラクターに対しては賛否両論は出るだろう。大学で講演を行っている彼にしつこく論争を挑み、その後ベッドインするような、あまりにも大胆で直情型の彼女を、単なる迷惑な人、と途中までは見ることもできるからだ。でも、ジャスティンは、自分と正反対の、若くてパッションにあふれた彼女を愛したんだろうな。回想シーンばかりの出演なのに生身の女を感じさせ、ジャスティンの脳裏を離れない存在感のレイチェル・ワイズは、この役にぴったりだ。

Elieさんの感想はこちら

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2006/06/09

ゲルギエフ指揮キーロフ・オーケストラ「シェヘラザード」

この間のNHKの「芸術劇場」はシェヘラザード特集だったし、10月のルジマトフの「シェヘラザード」のチケットを押さえたら、無性に「シェヘラザード」が聴きたくなって、ゲルギエフのこの一枚を入手。実に濃厚でこってりとしていて、官能的な音。録音状態も非常に良くて、一つ一つの楽器の輪郭がはっきり聞こえてくる。それぞれのテーマの絡み合い方が、目くるめく世界へと誘ってくれる。第一楽章は美しいシェヘラザード王妃のテーマが印象的。第二楽章の「カレンダー王子」のファゴットも、エキゾチックでロマンティック。バレエでは使われていない第3楽章は、弦楽器がしっとりと優雅で柔らかく、この組曲の中ではちょっと異色という感じ。圧巻なのが第4楽章の祭りのテーマの激しさがうねりとなってたたみかける。激しいリズムと濃ゆい世界にどっぷり浸かって、くらくらしながら聴き入ってしまった。ドラマティックなテーマが絡み合う終盤は、バレエではシャルマールが帰ってきて、官能の狂宴に耽っていた人々を惨殺するところ。船の難破に合わせて霧のように消えていく終幕も素敵。通に言わせるとこのゲルギエフによる「シェヘラザード」はあまりにも濃厚なので、一番最初に聴くべき演奏ではないそうだけど。

そうそう、この曲の第一楽章の中盤のめくるめく夢幻的なメロディは、ノイマイヤーの「ニジンスキー」の船上のシーンに実に効果的に使われていて、このあたりの曲を聴くと、フォーキンの「シェヘラザード」ではなく、「ニジンスキー」でのイリ・ブベニチェクと、オットーが扮する黄金の奴隷の姿が浮かんできてしまうのよね(涙)。

そしてこのCDの解説書の冊子には、なんとニジンスキーが踊った、陶酔的な表情を浮かべた黄金の奴隷の写真が載っているのです。バレエ・リュスによる1921年の舞台の写真もあり、ヴェラ・フォーキナ演じるシェヘラザードあり、とかなり得した気分になります。

そういうわけで、また「Kirov Celebrates Nijinsky」の「シェヘラザード」を再見。ルジマトフとザハロワの組み合わせは今度の来日公演でも実現するのだけど、残念ながらその日は行けないのです。最初に見たときは、ザハロワは頑張って色っぽさを出そうとしているけど、やっぱり姫オーラが邪魔をしているのよね、と感じていた。が、今回改めて見ると、ザハロワやるじゃん、と思ったのだった。ザハロワはやっぱりサルタンの愛妾には見えないけど、その美貌ゆえか、冷たそうなビッチぶりは発揮できるので、細身の肉体とあいまってサディスティックで倒錯的な印象を与えて、私が観る予定のAプロのマハリナとはまったく違う官能性があるんだな、と。ルジマトフの黄金の奴隷の色気といったらそれはもう、さすが奴隷系の役柄が世界一似合う男だけに、ふるいつきたいような魅力に満ち満ちている。原色系を多用した露出度の高い、悪趣味一歩手前の衣装も、かえって怪しげなこの世界観には合っているのではないかしら。ロシアバレエのこういう過剰なところが私は大好き。

イーゴリ・コールプのラフレシアの花のような怪しい魅力満載の「薔薇の精」といい、勇壮な「ダッタン人の踊り」といい、このDVDは好きモノにはお勧め♪

R.コルサコフ:シェエラザードR.コルサコフ:シェエラザード
ゲルギエフ(ワレリー) キーロフ歌劇場管弦楽団 レヴィーチン(セルゲイ)

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追記:やっと我が家にもバレエフェスのガラの案内などが同封されたNBSからの郵便物が届いた。その中に10月の東京バレエ団の「白鳥の湖」のチラシもあったのだけど、ちょっと目を疑ってしまった。オデットの衣装をまとった上野水香がアティチュードをしているのだが、なんと膝が下を向いているのですわ(驚)。それなのに、足先は外を向いているのだけど、ちゃんとアン・ドォールしていないのに無理やり足先だけ外向きにしているので、実に不自然な膝下となっていて正直見苦しい。こんな写真を宣伝に使ってしまうのはまずいのではないか?

2006/06/07

バレリーナへの道 他

「バレリーナへの道」63号が発売になりました。まだ立ち読みしただけで、買うかどうかは少し迷っているところなんですが....
めぐみの馬耳豆富」さんにも書いてありましたが、連載記事で、「美智子のペルミバレエだより」というのがあります。ペルミのバレエ学校に留学している方の手記なんですが、そこにニコライ・ツィスカリーゼがやってきたそうです。踊りも実演して、本当はレッスンをやる予定だったのがそれはなくなってしまい、代わりに彼のお話があったそうです。そして、彼曰く「私は「ライモンダ」の全幕をポアントで踊れます」。いかにも、美しい脚を持つ彼ならできそうですが。しかし、それってジャンじゃなくてライモンダのパートを踊れるってことですよね?すごすぎます。「明るい小川」ではポアントを履いてシルフィードの格好をして踊っていらっしゃるくらいですからね。ニコライさんの写真がないのが残念です。彼はどうやら「ライモンダ」という作品には並々ならぬ愛がありそうです。

同じくボリショイの話題ということで、同誌には、セルゲイ・フィーリンのインタビューが載っています。冒頭には、ザハロワとの「ファラオの娘」のリハーサルの写真。それにしても、フィーリンのカッコウ、目の毒です。レオタードのようなレッスン着で、これまた美しい脚が付け根から剥き出しになっていて鼻血が出そう。この写真を見ただけで(モノクロなのに)この1800円する本を買おうと思ったくらいです。フィーリンがボリショイ・バレエ学校に入団したとき、男の子の受験者は100人いたのに合格者は3人で、今もバレエをやっているのは彼一人だそうです。

そのほかの記事は、牧阿佐美バレヱ団「ア・ビアント」の特集、各コンクールの入賞者の特集、それからバレエダンサーとそのお母さんへのインタビュー(下村由理恵さん、李波さん、佐々木陽平さん、針山愛美さん、中村かおりさん)などです。「ア・ビアント」は写真もたっぷりあって、小嶋直也さんと吉岡まな美さんの美しい写真もありますね。読み物も多くて、なかなか充実した内容です。

フィガロ・ジャポン」は「イイ男たちの私生活」という腐女子にはぴったりの特集です。ミュージシャン、作家、俳優に混じってマチュー・ガニオも、バレエ雑誌に登場するのとはまったく違った顔で写っていて、とても素敵です。私は実はマチューのルックスってそんなに好みではないんですが、この写真は本当にかわいい!若い男の子っぽさが出ています。怪我からは順調に回復し、「跳ぶのはまだだめだけどどんなポーズでもOKだよ」とのこと。ちなみに、好きな女性のタイプは、すごく外見が美しくなくってもいい、成熟した頭の持ち主で、自分の世界を持っている女性ということで、女優で言えばリーズ・ウィザースプーンだそうで。
ワールドカップに備えてサッカー界の美男子から、王室の美しき王子様たちまで、かなり手広く取り上げていて、目の保養になる特集です。でも、他にもバレエ界には素敵な男性がいっぱいいると思いますけどね。

すでにあちこちで話題になっているんですが、世界バレエフェスティバルのガラの演目発売要綱が発表になりましたね。祭典のイープラスでの発売日って私日本にいないんですが.....orz どうやら祭典会員の抽選受付開始も私の出発日のようですし。とても心臓に悪いです。イリーナ&ホセの黒鳥、マリア・アイシュヴァルトとマニュエル・ルグリの「オネーギン」手紙のPDD、まさかのシルヴィ・ギエムの「白鳥2幕」となかなか魅力的です。個人的にはデヴィッド・マッカテリ君の「海賊」も楽しみなんですが。

ところで、ノイマイヤーの「作品100 モーリスへのために」ってどんな作品でしょう?しかも出演者が、アレンクサンドル・リアブコ&イヴァン・ウルバンになっていますが、ジョエル・ブローニュではなくウルバンがガラだけ出演になったのでしょうか?それと、今見直してみたら、Aプロのマラーホフ&ヴィシニョーワの「マノン」沼地のPDDの振付がレフ・イワノフになっているんですが(笑)

それと、今、全幕プロの「ドン・キホーテ」のチケットを1枚探しています。時々ぴあやイープラスやNBSに戻り券がきているようなんですが、ちょっと迷うと瞬殺、って売れちゃっているんですよね。見切れ席は出るんだけどなかなか正面の席がなくて。2次発売の7月1日って、バレエフェスのガラの発売日でもあるんですよね。なんでわざわざ同じ日にするんでしょうかねえ。

バレリーナへの道 (Vol.63)バレリーナへの道 (Vol.63)

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2006/06/03

情報などいろいろ

細切れな情報、備忘録代わりに書きます。

サラ・ラムがロイヤル・バレエのプリンシパルに昇進したようです。ただし、現時点では公式サイトでの発表はなく、Ballet.co.ukのBBSで話題になっています。
おめでとうございます。 5月29日の「眠れる森の美女」でオーロラを踊った後発表になったそうです。1980年10月生まれとまだ若い、金髪アメリカ産美女です。ボストン・バレエの元最年少プリンシパル。ジャクソン、名古屋などのコンクールで優勝歴を誇るなど、輝かしい経歴の持ち主です。去年の来日公演では、「シンデレラ」の四季の精と「マノン」レスコーの愛人を踊りました。

イリ・キリアンのSinfonietta / Symphony In D / Stamping Ground(1980)のDVDがUKで発売になるようです。(amazon.co.uk)
去年のABT来日公演のガラで上演された美しく爽やかな作品「シンフォニエッタ」、去年の東京バレエ団の「シルヴィ・ギエム最後のボレロ」ツアーで上演されたユーモラスな「シンフォニー・イン・D」が入っています。発売予定は7月3日で、リージョンALLのPAL。キリアンというかNDTはDVD、日本で出ていないのですよね。「Black and White Ballets」(代表作の「小さな死」が収録されています)と、「L'Histoire du Soldat」(「兵士の物語」、なんとあのナチョ・トゥアトが主演している)くらいしかほかにないようだし。

講談社から出ている雑誌「クーリエ・ジャポン」に、「私たち、ロックスターみたい」バレエに熱狂する日本人、と題して、ボリショイ・バレエの来日公演についてロシアの雑誌アガニョークが書いた記事が載っています。(けいちかさんのサイトから情報をいただきました)3分の2ページでカラー、ファンからサイン攻めに遭うザハロワ、山手線に花を抱えて乗ろうとするアレクサンドロワ、上野駅でのツィスカリーゼ、そしてザハロワ&ツィスカリーゼの「バヤデルカ」の写真が小さいですが載っています。アガニョークの該当記事はこちら(けいちかさん、ありがとうございます)

今日はマリインスキー・バレエの来日公演発売日でしたね。全幕プログラムはキャストが出ていないし、旅行前で極貧なので今回は見送りです。ロパートキナ・ガラとオールスター・ガラのみ先行で取りました。平日6時半に上野は厳しいので、取るかどうかも迷ったのですがE席が取れたので。本当に、バレエの公演が6時半開始(バレエ・フェスに至っては6時!)なんて、社会人をバカにしていますね。6時が定時の会社も多いんだから、もう少しその辺をプロモーターも、会場も考えて欲しいものです。

あと光藍社のDMが届いたので、ルジマトフ&インペリアル・ロシア・バレエの「シェヘラザード」を取りました。本当は「ダッタン人の踊り」が好きなのでBプロを取りたかったのですが所用があるのでAプロで。このインペリアル・ロシア・バレエ団、なんと芸術監督があのゲジミナス・タランダ(元ボリショイ・バレエ、「ライモンダ」のアブデラーマン役が鮮烈だった)です。そしてBプロの「シェヘラザード」でのゾベイダ役は新国立劇場の「ライモンダ」のスケジュールを縫ってのザハロワの出演。

今回何かと物入りだったので、マールイのセット券は取らなかったのだけど、あちこちで話題となるのも納得するほどのユニークなセット券名。「全演目セット」、「チャイコフスキー・セット」「ルジマトフ4演目セット」「ファミリー・セット」あたりは普通だけど、「とことん!ルジマトフセット」「みんなでルジマトフセット」「海賊スペシャルセット」は光藍社さんやってくれるね、って感じ。ちなみに「とことん!ルジマトフ・セット」は、海賊、ジゼル、バヤデルカ各2回に白鳥が1回ついて、〆て94500円也。通常だったら105,000円だからお得だけどね。
今のところ、主演一人しか名前が出ていないので、なかなかチケットが買えないというのもあります。やっぱりシェスタコワやシヴァコフが出る日は人気が出そうですね。

Jiri Kylian's Black & White BalletsJiri Kylian's Black & White Ballets

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2006/06/02

クデルカ版「シンデレラ」と、バレエ「シンデレラ」の歴史(その2)

アシュトンは、天性の性質が役柄に反映された初演キャストを得るという幸運に恵まれた。シンデレラはマーゴ・フォンテーンを想定して振付けられたが、彼女は怪我をしてしまう(訳注:実際に初演ではモイラ・シアラーが踊った)。
シンデレラのキャラクターは、純粋な善良さ、苦悩と勇気、そして愛の芽生えから花開いて満たされるまでの道筋を表現する、フォンテーンが生まれ持った能力を呼び覚ますものであった。

当然のごとく、近年において「シンデレラ」については新奇な解釈が生まれてきている。マギー・マランが1985年にリヨン・オペラ座バレエに振付けたヴァージョンは、子供時代を荒涼とした、忘れがたい視点で描き、ダンサーたちにグロテスクなマスクや着ぐるみを着せて等身大の人形として表現した。
1986年にルドルフ・ヌレエフがパリ・オペラ座に振付けた「シンデレラ」は、アール・デコ時代を舞台に、映画スターを夢見るヒロインという物語にし、カラフルで奇妙かつ楽しい作品に仕上げた。
キーロフ・バレエに振付けられたアレクセイ・ラトマンスキーの2002年のヴァージョンは、シンデレラと王子の優しいロマンスをもっても、家族と社会のシニカルな描写を和らげるまでには至っていない作品である。

ABTは、2つの「シンデレラ」を持っていた。1983年にABTのためにミハイル・バリシニコフとピーター・アナストスが振付けた気まぐれな作品と、1996年に初演された、ベン・スティーブンソンによるアシュトン版に忠実なヴァージョンだ。しかし芸術監督のケヴィン・マッケンジーは、新しい作品を取り入れる時が来たと考えた。

「ジェームズのアプローチは喜んで受け入れたよ」と彼は語る。「シリアスな演劇作品であるけど、同時にとても可笑しいんだ。そこにあるユーモアは無垢で、同時に洗練されていて古風である。想像できる範囲で最も複雑な振付もあるが、全体的にはとてもシンプルで自然なんだ」

クデルカの「シンデレラ」は特別にアイディア重視の作品であるが、そのためにダンスを軽視するものではない。妖精に扮した4人のソリストが高速で、アンサンブルによって形作られた、動く迷路の中を編むようにみせる複雑な動きは、混乱に秩序が危機一髪で勝利を収める様子を描くものだ。一方、シンデレラと王子が愛のパ・ド・ドゥを繰り
広げる曙のシーンでは、「観客がステップを見ているとは認識しないような自然な流れのあるダンス」というクデルカの理想を体現したものとなっている。「ダンサーは単に音楽から生まれた存在という風に見えるんだ」とクデルカは言う。

このバレエはまた、純粋なエンターテインメントを提供するものである。社交界に憧れる義理の姉たちのおふざけは、スラップスティックコメディのような上質の笑いを提供している。ガラスの靴のテーマは、シンデレラが裸足で登場し、ガラスの靴の舞台に届いたときにやっとピンクのサテンのトウシューズを穿けるということで象徴されている。カボチャが空を飛び、シンデレラを、まるでそれが彼女の専用のヘリコプターか、輝くオレンジ色の宇宙船のように王室のボールルームに運んでいくという演出も見逃せない。

(訳終わり)

カボチャのかぶりものをしたダンサーが踊るなど強烈なヴィジュアルイメージがあるこの作品は、ナショナル・バレエ・オブ・カナダだけでなく、去年はボストン・バレエでも上演された。ここで動画とクデルカやボストン・バレエのダンサーたちのインタビューを見ることもできる。(一番下のリンクをクリック)

クデルカに限らず、「シンデレラ」の物語とプロコフィエフの音楽は多くの振付家を魅了してきたようで、ここで取り上げられた以外にも、モンテカルロ・バレエのマイヨー版が7月の来日公演で上演されるし、ボリショイで今年初演されたばかりのユーリー・ボリーソフとユーリー・ポーソホフによる宇宙的でスケールの大きい新作もある。

クデルカ版シンデレラが日本の観客に披露される日も近いのではないだろうか?

クデルカ版「シンデレラ」と、バレエ「シンデレラ」の歴史(まだ途中)

6月2日に、ジェームズ・クデルカが振付けた「シンデレラ」がABTによって新制作されプレミア公演されるが、ニューヨークタイムズに、クデルカによる作品のコメントと、バレエ「シンデレラ」の歴史が載っていて、大変興味深かった。プロコフィエフによる、おとぎ話の音楽としてはいささか不穏で奇妙なスコアがこの作品の魅力だと思っていたけど、プロコフィエフ以前にも「シンデレラ」のバレエは上演されていたのだ。

以下翻訳です。

「シンデレラは単なるおとぎ話の登場人物ではなく、感情、経験を持ち、そして動いている実体を持った人間としてみている」とプロコフィエフは「シンデレラ」のスコアを作曲した際に語っていた。1945年に作曲されたこのスコアは、多くの振付家に、様々な解釈をもったインスピレーションを与え続けた。最近ではジェイムズ・クデルカがその振付家の一人となった。

クデルカが所属するナショナル・バレエ・オブ・カナダで2004年に初演された「シンデレラ」は、6月2日にABTによってニューヨーク・プレミアが行われる。

クデルカの解釈は、プロコフィエフが表明した「登場人物に人間性を与えたかった」という表明を反映したものである。クデルカは少なくとも10年間ほどは「シンデレラ」から遠ざかっていた。貧しさからお金持ちになるというシナリオ、王子がその財産と権力で哀れなシンデレラを救うために身を落とすという考えが嫌いだったからだ。
彼のバレエでは、二人はお互いを救う。シンデレラによって王子は王室の空虚な生活を逃れることができ、シンデレラは王子によって、何も考えていなくて感情のない義理の家族が決して与えなかったひたむきな愛を与えられる。物語の中の変身のテーマにひきつけられたクデルカは、カボチャが馬車に変身することを、人間の進化と捉えている。「100円ショップの心理学と呼んでもいいよ。でも、それがここで効果的なんだと思う」

彼のシンデレラは、虐待されていたというよりは混乱をしていた。「シンデレラは、自分が求めているのは愛であるということを知らない。なぜなら、機能不全の家族の中で彼女はそれを経験したことがないから。継母や義理の姉たちは、田舎の成り上がりで、外見のことしか気にしていない人たちだ」

シンデレラの王子は、豪奢、虚飾そして社交界において他人を蹴落とすことばかりを気にかけている王室の後継ぎとして同じく苦しんでいる。主人公たちが出会うと、「相互補完しあう」とクデルカは言う。彼らは自分たちの方法で障害を克服すると、静かな家庭生活の中に落ち着くことを選ぶ。「最初から最後まで、私の最大の目的は、この物語を筋の通ったものにすることだった」

シンデレラの物語は古代から存在しており、書物の中では9世紀の中国に最初に現れた。ヨーロッパでは1630年にGiambattista Basileによって民話や御伽噺のアンソロジーの中でナポリの方言によって力強く描かれたのが最初の出版である。今日最も知られているヴァージョンは、フランスのシャルル・ペローやドイツのグリム兄弟によるものである。

19世紀初頭、グリム兄弟は、ホラー色に満ちた「シンデレラ」を生み出した。拷問、(足を靴に合わせるための)自己による身体の損壊、悪い人の目を突く鳥などで。ペロー版は洗練されていて、エレガントでウィットにあふれている。茶目っ気のある皮肉という彼の本質にもかかわらず、ペローは性善説を取り、シンデレラが王室入りしたとたん、彼女は義理の家族によってもたらされた悪事を許すという美質を描いている。

「シンデレラ」は、いまや作品とは切り離すことができないプロコフィエフのスコアが作曲されるずっと前からバレエとして上演されてきた。19世紀初頭からヨーロッパで上演された記録がある。マリウス・プティパは1893年にサンクトテルブルグのマリインスキー劇場で自作の「シンデレラ」を上演した。1938年にミハエル・フォーキンはバレエ・リュス・ド・モンテカルロのための「シンデレラ」を振付けたが、記録に残るような作品とはならなかった。

その間、シンデレラのテーマはチャイコフスキー以外のすべての作曲家をも魅了してきたといわれ、ヨハン・シュトラウスは、彼の唯一のバレエ曲としてシンデレラを作曲した。しかし、プロコフィエフのスコアこそが、シンデレラのバレエが命脈を保ち続けるための触媒となったのである。それによって振付家の仕事が簡単になったとはいえないが。恍惚をもたらす楽章の下に、冷笑的で不吉なトーンが流れ、美徳が勝利を得ているという考え方に反駁して、実際には悪はどこにでも存在しているとささやいている。

マリインスキー劇場のキーロフ・バレエのために作られたこのスコアは、実際には、ライバルであるボリショイバレエで、Rostislav Zakharovによって1945年に最初に振付けられた。1年後にキーロフ用にコンスタンティン・セルゲイエフが振付を行い、1964年に自ら改訂してマイムを踊りに置き換えるという当時のトレンドを取り入れた。ソヴィエトのバレエの典型に従い、これらの初期の版は、怒り、口やかましさ、ペーソス、憐れみ、驚きとロマンティックな幸福といった核となる要素を明確にした、単純でまっすぐな方法で物語を伝えていた。

現在最も高い評価を得ている「シンデレラ」のバレエを作り上げたのはフレデリック・アシュトンである。優しさ、戯画性、そして輝きを織り込んだ作品である。1948年に現在のロイヤル・バレエの前身であったサドラーズ・ウェルズ・バレエ団のために振付けられた。現在も輝きを失わないその魅力は、2004年にリンカーンセンターで行われたアシュトン生誕100周年記念のフェスティバルでも証明された。この秋、シカゴのジョフリー・バレエでアシュトン版のシンデレラは上演される。

(続く)

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