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2005年3月

2005/03/30

『ビヨンドtheシー~夢見るように歌えば』Beyond The Sea

某雑誌の映画担当編集の方と、某脚本家に「大傑作だから観ろ!」と言われて観に行った。それにしても、邦題なんとかならなかったものか。「ゴッドandモンスター」に続く珍題だよ、これは。

ケヴィン・スペイシーが60年代に活躍した実在の歌手、ボビー・ダーリンの生涯を自作自演で映画化したもの。実在の歌手の人生を描いた映画といえば最近では『Ray/レイ』があったけど、あちらはかなりストレートに描いているのに対して、この作品では虚実織り交ぜて、少年時代のボビーから見た彼自身というのを描いている。作品は、自らの生涯を自分で映画化しようとしているところから始まる。「記憶の中では、想い出は自由に想像に任される」という彼の台詞の通り、華やかでどこか非現実的なミュージカルシーンも挿入されている。

『Ray/レイ』ではレイ・チャールズの歌声がレイ本人のものであったのに対して、この映画ではケヴィン・スペイシー自身が歌を披露し、華麗なステップも披露。黄色いスーツを着てこれでもか、と軽やかに踊りまくるシーンは楽しい。

この映画の中で、ボビー・ダーリンは舞台の魔力に取り憑かれた人間として描かれている。元ボードヴィル・ダンサーだった母から歌と踊りを叩き込まれた彼は、母とともに、フランク・シナトラも出演していたクラブ、コパカバーナに出演することを夢みる。ヒットを放ち、亡き母と約束していたその夢を実現した後も、妻である子役出身の女優サンドラ・ディーとの結婚生活よりツアーや、仕事関係の人間たちを選ぶ。

髪が薄かったためカツラを着用したところ売れっ子になったというエピソードは、後半の「人は歌を見た目で判断する」というサンドラの台詞にも生かされている。エンターテインメントの虚構性をうまく突いている。(とともに、実際にちょっと髪の毛が薄いケヴィン・スペイシーの体を張ったギャグとも思えるわけだが)反戦運動に目覚め、突然カツラを取ってヒッピーのような姿で舞台に立ったところブーイングの嵐だったエピソードも、エンターテインメントというのは見た目に左右されるものだというところを現している。

出演した映画でアカデミー賞にノミネートされ、取り逃がした時の半端ではない荒れ方。そして徐々に売れなくなってきたところへ妻との不仲。出生の秘密。自分をみつめ直す旅に出たボビーは、時代の流れに翻弄され、本当の自分の姿を求めて迷走する。彼の心の旅はかなり痛々しい。

が、この映画のいいところは、その終わり方にあると言える。


(ネタバレ有り)

ボビー・ダーリンは実在の人間で、幼いときにリウマチ熱にかかったことから、もともと長くは生きられないことがわかっていた。医者に言われたほど短命ではなかったにしても、心臓が悪く若くして亡くなっている。死んだことがわかっている人間の生涯を描く作品となると、どうしてもその死の描写が大きく、そして悲劇的に扱われることが予想される。

が、この映画はそんな予想を鮮やかに裏切ってくれるのである。軽やかで晴れ晴れとしたエンディング。ボビー・ダーリンという人間はいつまでも生きているのだ。ケヴィン・スペイシーという人は根っからのエンターテインメント好き、舞台好きなんだな、と思った。

2005/03/29

蘇るニジンスキー神話 Kirov Celebrates Nijinsky

2002年パリ・シャトレ座/収録作品:『シェヘラザード』(振付:フォーキン/出演:ザハロワ、ルジマトフほか)『薔薇の精』(振付:フォーキン/出演:アユポワ、コルブほか)/『ダッタン人の踊り』(振付:フォーキン/出演:バイムラードフ、ラッサディーナほか)『火の鳥』(振付・台本:フォーキン/出演:ヴィシニョーワ、ヤコヴレブほか)

ハンブルク・バレエの来日公演『ニジンスキー』ですっかりノイマイヤーにはまったわけだが、肝心のニジンスキー作品をそんなによく知らなかったというわけで、amazonで見つけたこのDVDを購入。リージョン1とあるが実際にはリージョンフリーのようだ。
キーロフのスターたち、ザハロワ、ルジマトフ、コルプ、ヴィシニョーワらが出演していてすごく豪華。(国内盤も実は出ていたけど、高いのでこっちの方がお勧め)

やっぱり特筆すべきは壮麗で勇壮な「ダッタン人の踊り」だろう。生のコーラス付ですごい迫力。この作品は去年ルジマトフのガラで観たんだけど(振付は別)、ガラだったので出演者もそれほど多くなく、しかも主役の人が不思議な弁髪ハゲヅラをかぶっていたのだった。さすがに今回はそういうことはなくてすごくゴージャス。群舞は揃っているとはとても言い難いが。

ルジマトフとザハロワの「シェヘラザード」。ザハロワは本当に脚が長くてほっそりしていて、9頭身くらいの見事なスタイル。しかもその長い脚のしなること!ウェストが驚くほどほっそりしているだけに、アラブ風の露出度の高い衣装がかえってエッチっぽい。この人のアラベスクはラインがとんでもなく綺麗だわ。ルジマトフの黄金の奴隷は彼独特の濃厚でねっとりとした演技と力強くもねばっこい飛翔。濃いルジマトフと愛らしいザハロワという濃淡の組み合わせがちょうどいいバランス。ガラなのに舞台装置や衣装が豪華絢爛で見ごたえたっぷり。

イーゴリ・コルプの「薔薇の精」。私が最後に観た薔薇の精はその濃厚なルジマトフのだったので、それに比べればずいぶんとあっさりとした印象。コルプは比較的細身で繊細に、かつ軽やかに踊る人だった。体重をまったく感じさせないところはたいしたもの。

ヴィシニョーワの「火の鳥」。「火の鳥」といえばベジャール版の印象が強いので、意外と牧歌的な雰囲気にけっこう違和感があったのだが。さすがにヴィシニョーワはテクニシャンで、しかも例によってとても妖艶。うまいなあ、と思うんだけどあまり好きになれないダンサーだ。が、好き嫌いは別にすれば本当に美しく踊っていると思う。13人の乙女たちが悪魔に幽閉されているという話で、悪魔が骸骨の姿をしていてちょっとコントを観ているかと思ってしまった。笑えるんだけど作品としてはちょっと長く、やや弱いか。

ヨーロッパやアメリカのカンパニーでは観られない、ロシアっぽさが堪能できて面白いDVDではある。

2005/03/28

『エターナル・サンシャイン』 Eternal Sunshine of the Spotless Mind

私は必ずしも「マルコヴィッチの穴」「ヒューマン・ネイチャー」とチャーリー・カウフマン脚本もしくはミシェル・ゴンドリー監督作品を絶賛しているわけではないので、かなり不安を持ちながらこの作品を観ることに。(「アダプテーション」は面白かった)
でも、ジム・キャリーとケイト・ウィンスレットの組み合わせは絶対に観たかったし。

人間の記憶って曖昧なもので、自分の中で都合よく変えることもできるし、忘れたいことを忘れられることもある。でも、忘れられない記憶が私たちを苦しめたり、いろいろと指図をするってこともある。恋をした記憶は消すことができるのか?消されたと思っていても、自分の中に想い出は刻まれているのかも。そんな記憶の不思議な作用についての映画。

今までのカウフマン作品って、アイディアはとても突飛で面白いし、途中までとっても斬新ですごい、と思っていながらも後半は頭の中でこねくり回したような複雑すぎる構造についていけず、結局一発アイディアで終わっているところがあった。でも、今回は後半、多少ごちゃごちゃしながらも、時系列の切り離し方がわかりやすく演出され、結末までうまく収拾してされていると感じた。何しろ、メーンキャスト、特にジム・キャリーとケイト・ウィンスレットがいい!ジム・キャリーの“気の弱いいい人”ぶりと、ケイト・ウィンスレットの奔放な中に弱さを秘めた部分が非常に魅力的。ジム・キャリーが記憶を消されている最中に目を開き、ちょっと哀しげな表情を浮かべる時には泣きそうになった。

氷の上で二人が横になって夜空を見つめるショットの切り取り方や、冒頭の海岸でケイトを見かけるところのが光の加減がとても美しい。この二つのシーンだけで、いい映画だと直感してしまうくらい。

ジム・キャリー演じるジョエルの記憶を消そうとする際に、二人の恋の記憶が走馬灯のように駆け抜ける。消え去る寸前の思い出のなんと美しくせつないことか。消されていくスピードに追いつかれないように二人が走って逃げていったり、記憶の地図の中にない場所を捜し求めてジョエルの4歳の時の記憶に逃げ込んだりと、思い出の中の二人があちこち飛び回る描写が楽しい。その4歳の時の家政婦に扮したケイトのファッションが可愛い。

ジョエルが書く日記のイラストがシュールで奇妙な味わいがあって面白かった。彼が描くクレメンタインの絵は、体がガイコツだったりするんだもの。記憶消去会社の女性メアリーを演じたキリステン・ダンストの小悪魔ぶりも似合っていた。エンディングのベックの曲が、せつない余韻を残していてよかった。

2005/03/25

舞台に恋をするということと「幻想~白鳥の湖のように」とマシュー・ボーン「SWAN LAKE」

ハンブルク・バレエ「幻想~白鳥の湖のように」を振付:ノイマイヤーの音声解説付で再見。彼はとても聞き取りやすい、わかりやすい英語を話す。

面白いな、と思ったのは冒頭に登場する青くて金色の刺繍がある美しい幕についての話。実際にルートヴィヒ2世の城の一室にかかっていた幕を再現したもので、ラストの彼の溺死を思わせるシーンでは、湖の水も表現しているのだ。別の幕を王が剥がすシーンでは、幕の下から19歳の戴冠式のときのルートヴィヒの眉目麗しい肖像画が現れる。ノイマイヤー先生と美術担当のユルゲン・ローズはずいぶんと徹底的な調査を行ったようだ。2幕の白鳥たちのシーンは元振付を再現すべく、元バレエ・リュス・デ・モンテカルロのダンサーに依頼して当時の振付を再現させたという。

一回目に観た時はただただ凄い、と思って食いいるように観ていたのだが、今日観てさらに面白い構造の舞台だな、と思った。随所に仕掛けがあるのだが、自分にとって一番やられた、と思ったのは2幕の劇中劇。

王はがらんとした城の中で、自分ひとりのために「白鳥の湖」を上演させる。そしてオデットが登場した瞬間、彼は雷に打たれたように席から立ち上がる。そしてついにパ・ド・ドゥでは自分が舞台の中に踏み込んでしまい、王子の代わりに王子役を踊ってしまうのである。オデットも、王子も、白鳥たちも一瞬素に戻って驚いた表情を見せるが、何しろ王なのでやめさせるわけにもいかずそのまま踊り続ける。自分の席に戻った王だったが、再びコーダでは舞台に上がり、王子が踊るべきパートを踊ってオデットをリフトし、しまいには永遠の愛を誓ってしまうのである。

ここで二重の“幻想”の構造が登場する。
そもそも、「白鳥の湖」のオデットという白鳥に姿を変えられた姫という存在自体が幻だと考えることができる。最近、マシュー・ボーンの「白鳥の湖」の出演者のインタビューを読んだら、演じるダンサーによっては、2幕4幕の白鳥のシーンというのは完全に王子の妄想ではないかという解釈があるということだ。(一方で、幻ではなく現実であると考えているクリス・マーニー@王子もいる)

ボーン版の白鳥では、ザ・スワンは王子の理想とする姿の反映であり、なおかつ彼の“愛されたい”という願望をかなえるために存在している生き物である。

一方、こちらの「幻想~白鳥の湖のように」では、2幕の白鳥たちのシーンは、狂気に陥り城に幽閉された王が、記憶をたどっていくうちに甦る虚実入り混じった場面となっている。1幕で親友のアレクサンドル(彼の存在自体、妄想なのであるが)とクレア姫との愛の踊りを観て、孤独な自分には決して持ち得ないその愛を渇望する王。彼は、白鳥オデットという幻の存在に恋をする。

しかも、このオデットは「幻想~白鳥の湖のように」の登場人物ではなく、劇中劇のキャラクターで、バレリーナによって踊られている。そもそも、オデットは現実ではなくて舞台の上の存在なのだ。白鳥という自分の妄想の中の存在と、舞台の登場人物という二重の幻想に王は恋をする。

王は、自分ひとりのために盛大な舞台を開催させるほど「白鳥の湖」の物語の世界に耽溺している。王のモデルとなったルートヴィヒ2世も実際自分ひとりのためにオペラやバレエを上演させたそうだ。舞台や映画を好きになった人間の中には、その登場人物に恋をして、その作品の中に入りたいという願望を持ったことがある者もいるだろう。それを自分の妄想の中とはいえ、実際にやってしまったのが、この「王」である。物語の中では、自分はひとりではない。愛してくれる人がいる。誰も理解してくれる人がいない現実の世界を飛び出して、物語の中で生きていたい。(そしてボーン版の王子も同じように現実に適応できず、幻のザ・スワンとともに踊り、最後には夢の終わりとともに死を迎える)

そんな舞台病の人間の願望を、実際にこの作品で実現させてしまったノイマイヤー。

う…今の自分にとっては洒落になっていないことだ。

さらに「幻想~白鳥の湖」の面白いところは、「白鳥の湖」に夢中になって劇の中に入り込んで踊る王の姿を、婚約者ナタリア姫が覗き見てしまい、王の愛を得るために3幕の舞踏会でオデットの扮装をしてしまうこと。王はナタリアをオデットだと勘違いして愛を誓ってしまう。

2幕のジークフリート王子に成り代わる王と、3幕のオディールに成り代わるナタリアという二つの“成り代わり”の構造がある。とともに、オリジナルの「白鳥の湖」はオディールがオデットに成りすまして王子を騙すのに対して、こちらではナタリアがオデットに成りすますという読み替えを行っているのである。しかも、ナタリア自身もオデットという現実ではない存在(白鳥であり、舞台の登場人物)に化けてしまうほど、現実と幻の違いがわからなくなってしまっている、それほど王を愛してしまっているという描写が、この作品のとても怖いところだ。

なんだかまだちゃんと整理できていないけど、考えれば考えるほど面白い。「幻想~白鳥の湖のように」もボーン版「白鳥の湖」も王もしくは王子が3幕の出来事が原因で精神的に錯乱して閉じ込められるところとか、女王がとても冷たくて母親の愛を感じられないところとか、幻想=妄想という設定を使っているところとか、共通点が多いのだけど、でも全然違う作品になっているのが興味深い。

チャイコフスキーのスコアそのものが、このような精神的な満たされなさ、その魂の飢餓状態を補うための愛と死を表現しているからだろうか。

このあたりはまた後で考察してみよう。

いずれにしても、この2作品は、作品の中に観る者自身も溺れて自分を見失いそうになってしまうほどの魔力を秘めている。

2005/03/22

『香港国際警察NEW POLICE STORY』警察故事

ジャッキー・チェン映画は中学の時に弟とよく見に行ったものである。もちろん傑作『ポリス・ストーリー/香港国際警察』も。ハリウッド進出後も意外と彼の作品は観ているなあ。

さて、周りの香港映画ファンからは傑作の誉れ高いこの作品、往年の彼の作品を髣髴させるサービス精神満点で楽しめた!

ジャッキーってもう50歳になるというのに、本当にアクション頑張っているね。高層ビルからの駆け下りとか、火のついたロープに飛び乗るとか、暴走バスを乗りこなすとか。ワイヤーは使っているけど、素早く華麗に展開する動きはさすがに見ごたえ有り。

ジャッキーに限らずアクションシーンはかなり気合が入っている。警察が犯人を追い詰める際の隊形とか人員配置がかっこいい。香港国際展示場を縦横に使ったアクションや、バス暴走のやけくそなまでの街中破壊ぶりというお約束の展開。ビル駆け降りはジャッキーだけではなくニコラス・ツェーやテレンス・イン、ココ・チャンも挑戦している。

ジャッキー映画にしては若干シリアスすぎて笑いが少ないところが難点かもしれない。部下を9人も亡くすシーンなどは、ちょっと悲し過ぎて洒落にならないほど。そのせいで酒びたりになってしまった刑事という、けっこうしょぼくれた役。でも、酔いつぶれていてもやるべき時にはちゃんと体が動くのはさすが。

ニコラス・ツェー演じる若手刑事が、『踊る大捜査線』の青島コートそっくりのコートを愛用しているのはちょっとしらけるが、彼がジャッキーを「頑張れ僕のヒーロー!」と応援しているのは、ジャッキーファンが彼を応援しているようにも見えてきて胸が熱くなる。ちょっと人情話っぽい終盤の展開は香港映画の得意とするところ。よく考えると結構悲惨な話なのだが、この若者と、(TWINSのシャーリーン・チョイ演じる)可愛い婦人警官がいるおかげでずいぶんと明るく希望があるように思えてくる。

欠点がいっぱいあっても、サービス精神満載、ほろりと泣けて暑くなる映画というのは観ていて気持ちいいね。アクション映画好きなら必見。

ダニエル・ウーとテレンス・インの『美少年の恋』コンビは、そろそろ似たような悪役ばかりというタイプキャストから抜け出た方がいいと思うけど。

http://www.hongkong-police.com/

『大統領の理髪師』Bunkamuraル・シネマ

去年観た映画のお気に入りが韓国映画ばかりだったのに、今年はどうも心引かれる作品を見かけなくて映画館にも足を運んでいなかった。私はそんなに韓国俳優に関心がないものだから、アイドル映画はあまり観る気がしないのだ。

Bunkamuraにチケットを引き取りに行くついでに「大統領の理髪師」。60年代にひょんなことから当時の朴大統領の理髪師になってしまい時代に翻弄された男とその一家の物語だ。サイトを見てもこれが実在の人物なのかどうかは不明。

主演の理髪師にソン・ガンホ、その妻にムン・ソリ。そして息子役には『先生、キム・ボンドゥ』『殺人の追憶』『花咲く春が来れば』に出ていた名子役のイ・ジェウンと演技陣は最強。ソン・ガンホの演技の素晴らしさは言うまでもない。ちょっととぼけていて、権力に擦り寄ることでしか生きていけない、でも実直な庶民を哀歓こめて演じている。

すごく驚いたのが、まだ小学生の息子がスパイ容疑で(しかも単に下痢をしていただけなのに)捕まって延々と拷問されるというくだり。こんな子供が北のスパイだなんて疑われて、しかもかなり残酷な拷問を受けさせられるなんて、軍事政権時代の韓国って恐ろしいところだったんだな。マルクスウィルスなんて下らないものをでっち上げてしまって。もっとほのぼのとした映画だと思ったら、その事実にかなり映画の内容を割いている。こういう負の歴史を入れられるのって凄いと思った。

理髪師ソン・ハンモは、自分の床屋の見習だった女性を手篭めにして妊娠させちゃったり(でもちゃんと責任は取って結婚する)、不正選挙に荷担したりと、とても褒められた人格の持ち主ではない。下痢にかかった者は通報せよということで自分の子供まで警察に連れて行ってしまう。でも、何とかして息子を救おうと奮闘する姿には人間の原点みたいなものを感じさせてくれた。

自分が大統領の専属の理髪師だったら、普通、口利きすれば子供は助けてもらえると思うのにそうはいかないところが、この時代の軍事政権の怖さを感じさせるね。大統領府での家族ご招待食事会でも平気で銃を突きつけちゃうくらいで、何かとすぐに銃口がこっちを向いてくるんだもの。

そういうわけで、骨太で、庶民の哀しさいとおしさを感じさせてくれる正統派のいい映画だった。意外と残酷だったけど。

2005/03/21

「幻想~白鳥の湖のように」ハンブルク・バレエ

またBumkumuraに電話してマシューの白鳥の千秋楽のマチネのチケットを手に入れる。平日昼間公演で仕事休めるのか、って感じだが。しかも今朝、追加公演初日のチケットが家に届いたばかりだが。本当に気が狂っている。チケットを回収するついでにBunkamuraル・シネマで「大統領の理髪師」を観る。今年初めての韓国映画。感想はまた別途。

ブックファーストで、ハンブルク・バレエのリハーサルの記事が載っている「バレリーナへの道」を買って、チャコットで練習用のニットを買う。それからデジカメ用の電池を入手と今日は大散財。

オーストラリアのサイトで注文してから一ヶ月。ようやく届いたハンブルク・バレエ「幻想~白鳥の湖のように」。以前BSで放送されたときに観ていたことは観ていたのだけど、録画しそびれていたので。 PAL盤なのだが、うちのプレイヤーで無事再生ができた。

「白鳥の湖」の王子を、バヴァリアの王ルートヴィヒ2世に置き換えたこの作品、もう冒頭から王が狂ってしまって城に幽閉されるところから始まる。彼の記憶の中に、彼一人のために上演された「白鳥の湖」のシーンが甦り、王はいつのまにか王子に成り代わって劇中に入り込み、踊っていた…。

3幕のシーンでは、オディールがオデットのふりをして王子を誘惑するのではなく、王の許婚であり(そして彼の愛を得たい)ナタリア姫がオデットに扮して、自分に振り向かせようとするという展開が斬新。

全編を通して、彼の“影”が登場する。影は悪魔ロットバルトだったり、3幕の道化&マスター・オブ・セレモニーだったり。そして最後にはこの闇は王を取り込んで覆い隠してしまう。“影”は狂王の心の闇の象徴である。と同時に、ボーン版の「白鳥」ではザ・スワンやザ・ストレンジャーにも相当する、王子の絶望的な愛を受け止めるキャラクターなのだ。

王を演じたイリ・ブベチェニクの演技が凄い。くどくもなく大仰でもないのに、佇まいだけで、その場にいるだけで、気が触れていることがわかってしまうのだから。城の模型にスリスリしたり、親友アレクサンドルを見ても反応しなかったりと完全に逝ってしまっているのだが、それでも王らしく堂々とした気品があるのが泣ける。 虚空を見つめ続ける瞳が映し出す、ロマンティックな狂気。

“影”のカースティン・ユングも素晴らしい。ラストでは王を逆さにして抱え込む恐ろしく難しいリフトをこなし、高貴かつ邪悪で圧倒的な存在感をみせてくれている。 “影”、マスク姿の道化、ロットバルトと色んな役を演じ分けなくてはならず、難役。

オデットを演じたアンナ・ポリカルポヴァ。白鳥という人間では存在を演じている上に、それが王の妄想の中という二重の幻なのだが、本当に夢のように美しいだけでなく、技術的にもこれ以上を望めないくらい完璧だ。光り輝く金髪、存在しているだけでドラマを感じさせるファム・ファタル的な美貌だけでなく、体のラインも跳躍も演技も凄いのだから無敵である。

そして王の親友(で、もちろん想像上の友達)アレクサンドルを演じたアレクサンドル・リアブコ。天使のように無邪気で、彼がのびのびと軽やかに端正に踊っているのを観るのは、至福のときだ。アレクサンドルという人物も王の願望の現れである。アレクサンドルと婚約者のクレア姫とのパ・ド・ドゥの輝き、幸福感は王が決して手に入れることのできないものだから。二人の気持ちの高まりを感じさせる、でも地にもしっかりと足がついたダンス。それに対して、王とオデットに化けたナタリアの踊りは、どこか歪んだ情熱を感じさせるものだ。

古典版だと4幕に相当する部分にあたる、王の死へと至る終幕の演出には戦慄を覚える。チャイコフスキーのオリジナルのスコアの使い方の巧みさ!影と格闘する王。湖を思わせる青い布で王を包む“影”。ヴィスコンティの映画『ルートヴィヒ神々の黄昏」でのルートヴィヒの死を思い起こさせる。求めてやまないものを手にすることができず、物語の中へ、幻想の中に入ったっきり二度と出てくることなく闇の中で一人死んでいった王。狂っているのに、その頭の中、思考は限りなくクリアーであるというところがあまりにも悲しい。

打ちのめされる一作である。

映像特典として、ノイマイヤーのインタビューがついている。(コメンタリーもあるけどそれはまだ聞いていない)とても興味深かったのが、ノイシュヴァンシュタイン城などルートヴィヒの建てた城を訪ね歩いた時のエピソード。未完成だから、と最後まで観ていなかった部屋に踏み込んだときにルートヴィヒの本質を知ったという。一つ一つの城に、自分が愛して病まないもののモチーフを取り入れ、愛する場所を再現しようと心を砕いたのに、ひとつとして完成を見ることができなかったというところにルートヴィヒという人物を見たという。

オーディオコメンタリーについては、Shevaさんのサイトで素晴らしい解説があるので、そちらをぜひご覧ください。

2005/03/19

天然のカオス、大森南朋. 『新・痴漢日記』

残業に引っかかってしまい8時40分に行ったらとっくの前に立ち見になっていた。座布団をもらって床に腰掛けるが床に座る場所もないほど。
大森くんったら今や女子に大人気なんだ。だって今日の作品はVシネマの「新・痴漢日記」だよ。でも8割が女性客でしかも若い子ばかりだ。 彼はすごく透明な個性の持ち主で、色んな色に染まる。本当にいい俳優だな、と今日見て改めて思った。

映画の方は実はとてもウェルメイドでハートウォーミングなラブストーリーだった。大森南朋は、『ヴァイブレータ』でセクシーなトラッカーを演じたかと思えば、初主演作だったこの作品では女性と口を聞いたこともないような気が弱くておどおどした、山好きの青年として登場する。ときどきすごく切ない表情をするよね。相手役のスリ常習犯の学校職員を演じる栗林知美は幸薄そうで都会の片隅で地味に生きる女性を好演している。大森演じるゴンが住んでいる昔風の下宿が、型破りな痴漢ばかり集まっているという非現実的かつコミカルな設定で、痴漢という女性にとってはヤダ~という要素を和らげている。螢雪次朗演じる管理人をはじめ、脇役たちがすごくいい味。田口トモロヲや梅沢昌代など出演陣はなかなか豪華。「みんな仲良く」という額が掲げられたアパートの住民たちが肩を寄せ合って生きていて、まるで人情喜劇のような映画。山好きの設定を生かしたテントの中のラブシーンはとても美しい。「才能のない人間なんていないよ」などいい台詞もたくさんあるし、Vシネでありながらフィルム撮りで映画的なつくりになっている。

終演後、宣伝担当のsixour mimirさんにご挨拶して、富岡忠文監督と共同脚本の新田隆男さんらと軽く飲む。登場人物たちのウラ設定や、撮影の苦労話も聞けてとても面白かった。痴漢という反社会的な要素のある映画をいかに、嫌悪感を持たせないようにするかという工夫の数々。プロとしての矜持を感じた。昔っぽいけどなぜか立派なアパートは実は日活の元保養所だったそうな。

2005/03/14

『白鳥の湖』3月12日18:00(前半楽)

ザ・スワン/ザ・ストレンジャー ジェイソン・パイパー
王子 首藤康之
女王 オクサーナ・パンチェンコ
ガールフレンド リー・ダニエルズ
執事 アラン・モーズリー
幼年の王子 ギャブ・パーサンド

本当は余裕があったらマチネも行きたかったが、お金もないし家事もたまっていたし(一応主婦)ソワレから出陣。今回7回目。

今日はザ・スワンにジェイソン・パイパー、王子に首藤康之。水曜日に見に行った時は3階が閉鎖されている寂しい入りだったがさすがに今日は前半最終回だったので入りが良く、客席も大盛り上がりだった。

ジェイソン、ちょっと怪我をしていたみたいで、万全ではないと思わせるところもあったが(汗の量が半端じゃなかった)表現力はますます研ぎ澄まされている。2幕は疲れが見えたが、少しずつスワンと王子の間の距離が縮まってくる様子が手にとるようにわかる。ザ・スワンの存在感も増していて、最初のうちはチンピラグループの大将くらいのやんちゃな感じだったのが、今は2幕の時点から孤高を感じさせるのだ。狼の群れの中でもひときわ獰猛で眼光鋭く他を寄せ付けない聖なる野獣。孤独な狼を思わせるワイルドな風貌。目力がすごいんだよね、彼は。

ヘスススワンのような回転の時のしなやかさ、柔らかさはないけどその代わりぐいっとシャープで力がみなぎり、情熱を感じさせてくれる。野獣らしく音出ししまくる。首藤王子とのパ・ド・ドゥも息が合っている。もちろん、首藤王子のほうが踊りは全然綺麗なのだけど、王子のノーブルさに対応しての野生、動物らしさということを考えればこれはこれでOKなのでは。

首藤さんの王子の踊りは観るたびに惚れ惚れするほど美しい。特に2幕コーダのところで踊りがシンクロするところは、ザ・スワンと対になったような、シメントリーな振りを見せて、しかもより優雅で柔らかく繊細だ。指先まで血が通って、体中が翼になったよう。途中まで地を這うような動きばかりだったのが、天から引っ張られているように高らかに生きる歓びを歌い上げている。陳腐な表現だけど歌うようにリズミカルに踊っているのだ。そして自分が気がついていなかった、生まれ持った高貴な美しさを始めて認識した王子。

スワンたちが去った後の、地面から解き放たれて自由になった王子の伸びやかな舞。内にこもっていたかのようなスワンクバー後のシーンとは対照的に、外へ、外へと広がっていくような、生の実感に満ち溢れた希望を放っている。まるで初めて彼自身に本当の朝が訪れたかのような。

3幕のザ・ストレンジャーは“ナチュラル・ボーン悪魔”って感じで罪悪感のかけらもなく軽やかに誘惑のゲームを楽しんでいる。王女たちをたらしこんではいるけど、本気ではなく彼女たちの欲望に火をつけて高笑い。彼女たちに身を預けている振りをして、余韻を残しながらもすっと引く。フェロモン過剰、エロス過剰なんだが、ねっとりしているわけではなく、いい意味で軽く明るい。額に黒い線を描いてザ・スワンを模した振りの所は悪魔的で、禍の神という印象もあり、身震いさせられた。

ジェイソン演じるストレンジャーは、その役名の通り、“異形の者”という印象が鮮烈だ。お高く止まっている上流階級のパーティの中に紛れ込んだ、黒い羊。ダークなルックスの彼は黒い染みのように際立ち、存在感を誇示する。

ストレンジャーと女王のPDD。今回の女王のオクサーナ・パンチェンコは「私は女性としてまだまだ現役なのよ」と常に物語っている存在。若く美しく艶っぽく、反面母親としての自覚が希薄で冷たい。このPDDは、クラシック版の白鳥だと「黒鳥のパ・ド・ドゥ」としてオディールが持てる魅力のすべてを艶やかに振り撒き、王子を誘惑していく踊りだ。オクサーナの華やかで優雅な踊り(アームスの使い方などはまさに黒鳥)は、オディールを思わせる。私はこんなにも美しくて高貴な存在でオンナとして最高なのよ、最高の男を手に入れてしかるべき存在よ、と誇示するダンス。ストレンジャーはそんな女王の感情を巧みに盛り上げていき、毒牙を絡めつけている。

そして王子とのPDD(タンゴ)へ。ここでのストレンジャーは、挑発的で戦闘的だ。王子に何かをけしかけるように、噛み付くように挑みながら攻撃的な小刻みステップを踏む。堕天使のような悪魔。怯える王子はここから壊れていく。

嘲笑される王子。もともとこの舞踏会では、彼に優しい顔をしてくれる人なんかひとりもいなかった。彼の孤独がここで際立つ。ストレンジャーの高笑いは、いたって無邪気なだけに王子をさらに深く傷つけるものだ。首藤王子は繊細で高貴、ガラス細工のようでいともたやすく心が砕け散ってしまう。その心が砕け散る音が聞こえた気がした。

男女対抗ダンス合戦。ここでのストレンジャーは、本来のガキ大将キャラに戻って、楽しそうにのびのびとステップを踏む。女性陣が踊っている時の腕フリフリのポーズなんか、イケイケで最高!

4幕のスワンたちベッド下から登場の後、目覚めてベッドの周りで混乱して踊る王子。心を千々に乱された王子の踊りが2幕のザ・スワンの動きをたどる。放物線を描く足の動きの美しさは、またしてもザ・スワンをはるかに超えるもの。

ジェイソンの魅力が一番発揮されているのは4幕だろう。2幕のやんちゃ坊主や3幕のナチュラルボーン悪魔とは打って変わって、とても懸命で優しく哀しい存在。若くて美しくて元気にあふれた青年が、ボロボロに傷つけられて瀕死になってもなお、王子を守ろうとする。ザ・スワンと王子の間の感情は愛であることには変わりはないのだが、愛といってもブラザーフッドというべき友愛がここにはある。(たとえばヘススのスワンは間違いなく性愛なのだ)
ジェイソンのスワンは他のスワンの誰よりも哀しい。王子の命は自分の命よりも大切なもの、彼が死んでしまえば自分は生きていても仕方ない、彼を守るためには自分の身がバラバラにされてもいいという気持ちが感じられた。あまりにも哀しみを満ち溢れさせたザ・スワンと王子の視線。ジェイソンも首藤さんも瞳に大粒の涙を湛えている。首藤さんにいたっては、瞳の奥に深い泉があって、とめどなくあふれ出てくる涙を止めることができないという按配だ。二人とも目力が強いだけに、しっかりと二人を結ぶ絆が目に見えてくる。何度も死に瀕しながらもそのたびに渾身の力を振り絞っていくザ・スワンだが、そのたびに少しずつ弱々しくなって、最後の天を仰ぐところでは崩れ落ちるように倒れていく。

ザ・スワンが消えた後おろおろとベッドの上で彼の痕跡、残り香を捜し求める王子。彼が死んだことを知った彼は魂の抜け殻となり、スワンズの一員(通称とどめスワン)の一撃でその苦悩から永遠に解放される。それでも、死後の世界で幸せになってよかった、というよりは果てしなき哀しみ、彼の幸せになれる世界はこの地上にはなかったという絶望感が重く心にのしかかって幕が下りる。

凄絶なものを見せていただいた。スワンなしの3週間あまり、どうやって生きていけばいいのだろうか。

2005/03/13

H・アール・カオス『神々の創る機械2005』


振付家大島早紀子とダンサーの白河直子を中心にしたコンテンポラリー・ダンス・カンパニーで、存在を知ったのは塚本晋也の映画『ヴィタール』で大島の振り付けによるダンスが登場したことから。
私はバレエな人でコンテンポラリー・ダンスは全然門外漢なのだが(もちろん、バレエのカンパニーがフォーサイスとかドゥアトとかキリアンのようなコンテンポラリー寄りの作品を上演するのはよく見ているけど、難解だな、と思うこと多い)
この作品は解釈が難しいところがありながらも、単純に観ていてステージから片時も目が離せないほど面白かった。

主役の白河直子がすごい。いきなり上半身裸で登場するのだけど、この体が極限まで脂肪を削ぎ落とした痩身。胸もないしやばいくらいのストイックな体。そんな体なのに上半身の動きの激しさといったら。痛々しいまでの激しさ。どうやらこの作品は死に瀕した人間が旅立っていくまでの物語のようで、死の甘美な誘惑と戦う様子が何度も何度も繰り返される。女性ダンサーたちはときに優しくときに激しく死へと誘っていく。
ベッドの上で飛び上がり回転したり、ワイヤーで逆さに吊られたり、ワイヤーで吊られて客席方面へと飛び出したりと、アクロバティックな動きも多用。
バレエとは違って下半身の動きは少なめで、とにかく上半身の激しくしなやかな動きに目が吸い寄せられる。全体を貫くただならぬ緊張感。
基本的にモノトーンの舞台の中で、赤い薔薇の花びらや赤い灯を効果的に使っている。衣装は黒のパンツスーツで統一されているけど、背中が開いているデザインがかわいい。
しかしこれだけ激しいし、白河直子の肉体は男女を超越しているのに、作品自体は「オンナ~」って感じがえらくするんだよな。この舞台に好き嫌いが出るとしたらそこの点かな。耽美な感じが。あとは、音楽がいろんなジャンルのものが入り乱れて統一感がないのが気になったといえば気になったが。
しかし、本当に白河直子はやばいくらい強烈。ダンスに興味がある人は一度は観た方がいいと思ったのであった。

2005/03/08

M・ボーン『白鳥の湖』にふたたびはまる

初日を観た段階では、こんなことになるはずではなかったのに…。

気がつけば最初に買ったチケット6枚が倍くらいに増えているし、もう5回も観ている。頭の中に3幕のコーダの曲がぐるぐるまわっていたり、スワンク・バーのシーン(プティパ/イワーノフ版だと乾杯の踊り)の早回しの曲も鳴っている。

観ている間は胸がどきどきしちゃって、ステージに吸い寄せられる。一昨年から通算してももう数え切れないくらい観ているのに、毎回胸をかきむしられるような思いがするのはなぜだろう。

『オペラ座の怪人』が好きなのとマシュー・ボーン版の『白鳥の湖』にひきつけられるのは、この2つの作品にある種共通点があるからかもしれない。ファントムも、王子も、誰からも愛されていない、この世界で冷たくあしらわれている中、唯一の希望の光を見つけ、すべてをそこに捧げ裏切られたと思い死んでいく。闇が深ければ深いほど、光は美しく輝き、その反射がわが身を照らすのだ。

ザ・スワン/ザ・ストレンジャーを踊るダンサーが一番目立つ作品なのだが、これは王子の物語。よって、王子がどれほど演技者として優れているかがとても大事だ。

前回はクリス王子のことを書いたけど、この週末はニール・ウェストモ-ランドと首藤康之の王子を観ることができた。ニールは『くるみ割り人形』で観たことはあったものの、こんなに素晴らしい演技力の持ち主とは思わなかった。澄んだ大きな青い目が(決して若くはないのに)純粋培養でどこかいびつなイノセンスを感じさせる。そして3幕からの壊れていく演技といったら。土曜日マチネは最前列中央で見ていたのだが、冗談じゃなく吸い込まれそうだった。3幕、ザ・ストレンジャーが白鳥の仮面をつけたときから音を立てて彼という存在が壊れていき、震え怯え、狂気の世界へと足を踏み入れていくのがわかる。

『くるみ割り人形』を観るとわかるように、マシュー・ボーンはハマーホラーなどの古典的な怪奇映画が大好きなのだが、ニールの演技はまさに怪奇映画の犠牲者の様相を呈していた。女王とストレンジャーのパ・ド・ドゥを目の当たりにして、胸をはだけ髪を振り乱し狂っていくずたぼろの彼の姿は見る者の涙を誘わずにはいられない。
4幕では、とても大柄な彼が小柄な白鳥たちにも蹂躙され小さく弱々しくでも意志とスワンとの絆だけは強く見えた。役への入り込みっぷりは半端じゃない。凄まじいものに触れた思いがした。

そして首藤さん。2年前にザ・スワン/ストレンジャーを観た時とても端正で美意識の高い存在感があった。今回も、自信なさげでありながら、彼独特の滅び行く者の美しさを感じさせる妖しい王子であった。1幕の成人した彼が登場するシーンでは、魂ここにあらず、どこか宙をさまよっている感じが印象的。自分はここではないどこかに行きたいのに、どうしても鎖を解き放って行けないというもどかしさを表現しているかに思えた。ニールが演じた王子とはまた別のピュアな存在。触れれば壊れそうな儚さ。

スワンクバーの後のシーンのソロは、クラシックの美しい踊りではない、粘っこく内省的な踊りを見せなければならないのだが、ここも彼らしい精神性を感じさせる振りになっていたと思う。 混沌として明かりの見えない闇をさまようような踊りなのだが、グラン・プリエ(深く腰を落とす振り。クラシックの基本)が綺麗。

2幕でザ・スワンと触れ合って魂が解き放たれていく様子を観ると、こちらの意識も解放されていく気がする。生きる純粋な歓びに満ち溢れた様子。踊りは手先足先まで伸びてとても伸びやかで綺麗だ。ジュテ(跳躍)も美しくすっとアンドォールしていて、気持ちが良いほど。しかも、それを軽々と、どうってことないって感じでたやすく踊ってしまうのはさすがだ。クラシック出身だけあって、2幕のコーダではザ・スワン役のジェイソンよりも白鳥らしく優雅で美しかった。自分の持っている本来の美しさに目覚めたという覚醒を感じさせる。

首藤さんはザ・ストレンジャーがちょっと弱いと前回の公演のときに感じたのだが、今回は演技面も頑張っていた。パーティの参加者にバカにされるときの傷ついた様子は痛々しい。ニールのような派手な壊れ方はしていないが、周囲の人々の残酷さが浮き彫りになるような深い手負いを感じさせる怯え方だった。

4幕で驚いたのは、ザ・スワンが白鳥たちに攻撃され命の灯を消してベッドに吸い込まれていった後、必死にザ・スワンの姿を追い求め、おろおろとその残り香を嗅いでいる演技を見せたこと。大きな瞳に涙をためていとしいしと(ゴラムじゃないって)の幻影を追い求める姿を観ると、こちらも胸がキリキリと痛む。ストレートプレイの経験を積んだ成果が生かされている、見事な演技だった。

そして首藤さんの気合がジェイソンにも乗り移ったようで、ジェイソンの踊りも力強くリズミカル、素晴らしかった。二人の間には化学作用が働いていたとしか思えない。4幕ではザ・スワンと王子の間の絆がしっかりと目に見えるようだった。兄のように王子を庇護しようとするザ・スワンの渾身の舞にはやられたよ。ジェイソンはコンテンポラリー系のダンサーらしく、リズム感がよく細かいステップが得意。3幕の男性軍団群舞の切れの良さには参った。キスの雨を降らせていて、その場にいる者全員に愛を振りまき、やんちゃでワルいけどかわいいやつだった。今回はジェイソンに一番やられたよ。

http://www.bunkamura.co.jp/orchard/event/swanlake/slmag.html

2005/03/05

対岸の彼女

角田光代著 文藝春秋

本年の直木賞受賞作。
35歳の二人の女性、2歳の娘がいる主婦小夜子と小さな会社の女社長葵。まったく違う境遇にいた二人の女性の出会い、そして葵が高校生の頃体験したひと夏の出来事を描く。

この年代の普通の女性が持つ閉塞感と強迫観念をすごく丹念に、きめこまやかに描いている。“普通に生きる”ってどんなこと?社交的で周りの人の顔色に合わせて生きていかないといけないの?世間一般が決めた幸せのとおりに生きていかなければならないの? 平凡でも自分らしく生きていくって、実はすごく苦しいことなんだよね。

わたしが生きていく上で常日頃考えているような生き方についての疑問にまっすぐに切り込んでいる。

“勝ち組”とか“負け犬”みたいな単純で人に優劣をつけるくくりでしか人をくくれないような世の中に、絶望感を感じる。そんなときに読むと葵の生き方や小夜子の選択に勇気付けられたような気がする。幸せの尺度は人それぞれ。

葵が高校生のときに出会った少女ナナコとの夏の思い出がキラキラ輝いていて、こういう出会いがあって、人は成長していって、感情を豊かにしていくんだな、と思った。

対岸の彼女対岸の彼女
角田 光代

文藝春秋 2004-11-09
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2005/03/04

『トラベリング・ウィズ・ゲバラ』

『モーターサイクル・ダイアリーズ』のメイキング・フィルムなんだけど、単なるメイキングに留まっていないドキュメンタリー。
映画の中ではロドリゴ・デ・ラ・セルナが演じたゲバラの親友アルベルト・グラナード。その本人、御年82歳のアルベルトが、映画の撮影スタッフとともに50年前の旅を再びたどるという趣向になっているのだ。彼は数年前に医師を引退し、今はキューバで家族に囲まれて暮らしているという。 『ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ』にでも出てきそうなイイ感じのおじいさんだ。

映画の中で、アルベルトは、年下の物静かで純粋なエルネスト・ゲバラに対し、陽気でおしゃべりで憎めない存在として描かれていた。アルベルト本人がとても82歳とは思えないほど元気で、50年前に彼らに会った人たちにも“落ち着きがない”なんて言われちゃうくらいのまるで少年のようなおじいさんなのである。 いかだに乗ってアマゾンの川上りしちゃうし若さいっぱい。ヴェネズエラでエルネストと別れた後も、60年代に二人はキューバで再会して一緒に革命を戦う。

冒頭、ガエル・ガルシア・ベルナルとロドリゴ・デ・ラ・セナに映画の中で登場したバイク「ポデローサ号」を贈られて大喜びのアルベルト。早速後ろにガエルを乗せて試運転。そして、奥さんと子供たちを連れて、南米縦断の旅に出発するのだ。とにかく元気、元気でエネルギッシュ。彼も、エルネストも出会った人たちにとても愛されていたのがわかる。「出会うのは嬉しいけど、別れるのが寂しい」と語るアルベルトはとても人懐っこい。

南米のなんともいえない空気感と光、青い空が印象的だった。真っ白な砂漠の吸い寄せられるような美しさ!マチュビチュの荘厳な雰囲気。50年前とほとんど変わっていないであろう、貧しい人々。彼らの人生を決定的に変えたハンセン氏病の病院を一行は再訪し、エルネストとアルベルトに実際に治療を受けた人たちも登場する。アマゾン川を泳いで渡るシーンは、ガエルがスタントなしで演じているメイキングを観るだけでも感動。気合がビンビンに伝わってくる。ロドリゴもすごくいい顔をした素敵な俳優だな。ついでに、監督のウォルター・サレスが意外と若くて男前なのにも驚く。

ハンセン氏病院でのダンスのシーン、メイキングはすっごく楽しそう。音楽は有名なマンボの曲とかをいろいろ使っているけど、それもすごくいい。

ラストにはゲバラの演説と、アルベルトの深い瞳のクローズアップ。この旅がいかに二人の若者の生き方を変え、そして世界を変えていったのかがさらによくわかり、映画『モーターサイクル・ダイアリー』の感動をさらに高めてくれる作品だった。

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